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熱血高話
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180: 09/03 20:53
    歴史の群像     28

 薩英戦争は、1863年 8月11日、7隻のイギリス艦隊が鹿児島湾に現れるが、この前か
らの出港の報は、入っていたのだ。しかし、イギリス側の目的は戦争ではなく、あくま
で生麦事件の賠償問題に対する直接交渉であったのだ。危険を察知した艦は入り江まで
入らず小舟で湾内に入り、陸上において役人立ち合いで、旅館で話し合う席が設けられ
、イギリス側は、改めて犯人の逮捕処罰と賠償金2万5000ポンドを要求した。薩摩藩側
が時間稼ぎを行い、回答を出さないことから、3ヶ目にしびれを切らしたイギリス側は
、 8月15日薩摩藩の汽船3隻を拿捕するという強硬手段にでた。この時に後の英国留学
生となる松木弘安、五代友厚が捕虜となった。これを開戦の意思と受け止めた薩摩藩は
用意していた天保山砲台から砲撃を開始し、英国艦隊との間で激しい砲撃戦を展開する
。薩摩藩側は既に住民を避難させていたが、鹿児島城下北部が焼かれ、諸砲台が壊滅的
損害を受けた。また、イギリス側も、弾薬庫の前に幕府から受け取った賠償金が積み上
げられており、戦闘準備に時間を要した。そのため、死傷者は60余人に及んだという。
一隻は直撃を受け沈みこそしなかったが自力航行はできなかった。思わぬ苦戦を強いら
れたイギリス艦隊は、鹿児島湾を去り横浜に戻っていった。その後に、横浜のイギリス
公使館で3回に及ぶ講和談判がおこなわれて、薩摩藩が2万5,000ポンドを幕府から借用
して支払うことで和解が成立したのである。交渉中に薩摩側がイギリス側に軍艦購入の
周旋を依頼したことから、これを購入する事にして以後、薩英の間に親密な関係が築か
れていき幕府の権力は同時に相対的に落ちていった。松木弘安(寺島宗則)と共に薩英
戦争時イギリス側の捕虜、罪人扱いとなった五代友厚は幕吏や攘夷派から逃れるために
長崎に潜伏していた。当時は海外との接触や特に負けた武士は果し合いの負けと同じに
切腹だった。ここでトーマス・グラバーと懇意の間柄になり、世界の情勢を知り危機感
を感じた五代は、1864年 6月頃、薩摩藩に対して今後の国づくりの上申書を提出する。
「これからは海外に留学し、西洋の技術を習得してこないと世界の大勢に遅れ、国の発
展に役立ちません。」この上申書に、新式器機の購入による藩産業の近代化、近代技術
・知識獲得のための海外留学生の派遣、外国人技術者の雇用、その経費に対する詳細な
捻出方法(上海貿易等)という具体的な内容までも含まれていて、藩主島津久光公を、
うならせた。さらに元はといえば、炸裂弾をまだ持たなかった薩摩の、西洋に並んだと
過信した盲挙での砲撃の始まりであった。一隻なりと沈めたなら戦果があったろうが、
全くの戦功がなかった。しかし、英国艦隊も又同じに、思わぬ反撃で多くの死傷者を出
しイギリス公使も参っていた。つまり海外には易々と占領できない地であることを示し
ていたのである。これまでも、富国強兵に努めていた薩摩藩の政策に、五代の上申書が
引き金となり、イギリス留学の方針が決定され切腹や家門廃絶は、逃れたのである。
こうした、日本人の一人一人の意識の高さや苦労が現代日本の繁栄を支える事になった


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