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まー
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239: 08/25 15:26
 朝鮮人に 喝!  289

 日本国内の鉄道の多くは、線路の幅を1067mmとしているが、新幹線はいずれも1435mm
である。国際的には前者のレール幅を狭軌、後者のレール幅を標準軌と呼んでいるが、
帝政ロシアの多くの鉄道が標準軌より更にレール幅の大きい広軌と呼ばれる1524mmで敷
設されてあったことから、東清鉄道のレール幅は広軌で建設されていた。この改造工事
に結局、奉天以北の改造は、鉄嶺(てつれい)までが4月、終点の長春まで満鉄本線の
すべてが標準軌に更新されたのは4月30日であった。こうして 狭軌用の車両を大連へ回
送が終わるころは5月を迎えようとしていた。実際に標準軌での営業が始まったのは同
年 5月30日のことであった。こうして戦争中の日本式狭軌は、標準軌道幅に変更されて
その上に回送のレール幅も整える用意がなされていた。委託された車両も野戦鉄道から
引き継いだ車両は使いものにならず、満鉄は自前で標準軌用の車両を調達しなければな
らなかった。満鉄はさっそく大連西郊の沙河口(さがこう)に鉄道工場の建設を始めた
が、標準軌への改築に合わせて標準軌用の車両を大量に用意するには、満鉄自らの製造
能力には限界があった。機関車を中心に大量の車両を輸入した。こうして帝政ロシアが
建設した東清鉄道の遺産を改修し、アメリカを中心とした欧米の鉄道技術を使いながら
満鉄は営業を始めて、自立する道を探っていたのである。動力がなく内装もいらない貨
車の製造は容易だが、動力を有する機関車の製造は簡単ではない。また、高級な客車も
内装の設計や施工には手間がかかる。結局、創業から2年間に満鉄が保有した標準軌用
機関車205両は すべてアメリカ製で揃えた。満鉄が自から機関車を製造したのは営業か
ら7年後の1913年のこととなった。客車も、食堂車や特等車はアメリカから輸入した。
今の韓国人や北朝鮮人やあるいは中国人は、帝国日本は、虐殺した侵略した植民地化し
たなどと叫ぶが、それは戦前に日本に帰化し諜報活動していた在日朝鮮系の新聞記者の
受け売りに過ぎない。確かに事実として虐殺に近いものは多々あったろう。しかし中国
国内の中国人の死亡者は日本人が殺したとされる数は中国軍の起こした殺戮の5%であ
る。何故か督戦隊戦争で背後に正規軍で殺していったし、共産党の躍進で北進するとき
も64の村落を皆殺ししているし、国民党軍も清野作戦で1200以上の村落を廃村に
して生き残り、その性格が今の都市化改造にも色濃く残っている。日本軍がもし植民地
化した社会を目標として作っていたなら、こうしたインフラ整備は必要なかった。石炭
さえも、日本からの出荷が多く、すでにガソリンなど石油ディーゼル機関すら発明され
ていたし、飛行機もゼロ戦など日本の技術で完成していた時代に苦労して行政指導する
事も無かったはずだった。たとえ大陸と繋がらない鉄道であっても沢山のクーリー達を
奴隷の如く鞭をつかって使えば済む話だったからだ。しかし都市の建設や鉄道の全通に
沢山の金と労力と時間を使って教育施設まで整えたのは、やはり、アジア浮上、西洋の
侵略への対抗や、人種差別しない、アジアを植民地としない。といった強い希望があっ
て行ったものだった。

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