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負けるなふたみー
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草々が行く22 土持氏は日向において、日下部氏に次ぐ古代以来の豪族であった。そして、県、財部
、清水、都於郡、大塚、瓜生野、飫肥に一族が割拠して「土持七頭」と称され、隠然た
る勢力を築いていた。伝統豪族の土持氏と新興の伊東氏との確執は、ともに武家方であ
ったことからはじめは少なかったと思われる。しかし、伊東氏が惣領を中心として日向
一帯に勢力を拡大してくると、次第に土持・伊東両氏の確執は表面化してきた。だが突
然に 応永四年(1397)、島津氏久は清武城を攻撃した。これが伊東氏と島津氏との本
格的な抗争の始まりとされ、以後、島津氏と伊東氏との争いは天正五年(1577)に伊東
義祐が日向を追われるまで続くことになる。他方、日向国山東に一揆が頻発するように
なり、さらに島津氏との対立も深まっていったが、祐安と祐立(すけはる)父子はよく
領内の安泰をはかった。やがて、島津氏に内訌が生じたが、応永十一年(1404)に島津
元久が日向守護に補任され内訌は終結した。応永十九年、大淀川南の曽井・源藤に島津
軍が侵攻してくると、祐安・祐立父子は曽井城に籠城してこれに抵抗した。ついで、同
二十二年に島津軍が跡江に侵攻し、同二十六年には加江田車坂城に島津軍が攻撃をかけ
たが伊東方はこれを撃退した。その後も島津氏の伊東氏領侵攻は、執拗なまでに繰り返
された。その間、祐安の娘が島津忠国に嫁いでいるが、両者の抗争はやむことはなかっ
た。この島津大友の両軍に挟まれた日向宮崎の地で土持氏の名声は高かった。居城とし
た飫肥城は 遠くは宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした
土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれる平地の城で
あった。時代が下って、室町時代末期の長禄2年(1458)九州制覇を狙う薩摩の島津
氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津
氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。この事が南の地に波紋を投げかけた。

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