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指導改善研修の実態 横浜市
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 危険な玩具と、大きな赤ちゃん 35

可鍛鋳鉄は大きな特徴として、鋳造時点では黒鉛がありません。もともと炭素やシリコ
ンを少なくしており、熱処理を経ることで、黒鉛を生成させていきます。熱処理のやり
方で、可鍛鋳鉄は、白心可鍛鋳鉄、パーライト可鍛鋳鉄、黒心可鍛鋳鉄といった種類に
分かれている。これを国内初に行ったのだ。戸畑鋳物が行ったのは、エンジン部門の鋳
造で、農業用・工業用・船舶用石油発動機(ディーゼルエンジン)の製造販売であった
1924年に開始し1926年に戸畑鋳物が現在の日立金属若松工場の前進である帝国鋳物鰍ネ
どを吸収合併。若松工場は合併後、東洋一のロール工場と言われる程になった。その後
1928年に長州閥として陸軍大将、田中義一の再建要請にしぶしぶこたえる形で、鮎川は
第一次世界大戦後の恐慌などで経営破綻に陥っていた久原鉱業を買い取り、社長に就任
した。同社を日本産業(日産)と改称し後にこの会社を持株会社に変更して大陸進出し
た。この中に公開持株会社として傘下に、日産自動車、日本鉱業、日立製作所、日産化
学、日本油脂、日本冷蔵、日本 炭鉱 、日産火災、日産生命など多数の企業を収めて、
日産コンツェルンを形成した。1931年久保田鉄工所からダット自動車製造鰍フ経営譲渡
され、1932にダットサンを誕生させて、軍需トラックの生産に乗り出した。1933年には
戸畑鋳物且ゥ動車部を設立、また日本産業鰍ニ共同出資で自動車製造株式会社を横浜に
設立。新子安の湾岸埋立地(現日産横浜工場敷地)2万余坪の土地を横浜市から買い取
った。1934年自動車製造鰍日産自動車鰍ニ社名変更した。戦後に旧日産コンツェルン
GPの日本油脂が、反組合の闘士だった彼を、「ストライキ破りにぴったりな若者」と
推薦し入社したのが塩路だった。当時、日産は労働争議を繰り返していた。47年に興銀
から経理担当常務として送り込まれていた川又克二は第2組合を作って労働争議を終了
させようと考えた。川又は面接した塩路に強い印象を受け、「骨のあるやつだ。ああい
う男こそ必要なんだ」と人事部長に採用を進言した。塩路は喧嘩屋本領を発揮しては、
横浜工場の経理課に配属された。彼はすぐに反組合派として頭角を現し入社間もない、
53年夏から4カ月間に及ぶ労働争議が起きた。第1組合の切り崩しを進め、労使協調路
線を掲げる第2組合を結成すると、新入社員の塩路は会計部長の要職に就いた。労働争
議を終息させた川又は57年、日産の社長に就任。58年に日産労組書記長に就いた塩路は
第1組合潰しの論功行賞として、ハーバード大学ビジネス・スクールへ留学(59〜60年
)させ帰国後の61年日産労組組合長、62年に日産グループの労組でつくる自動車労連の
会長に就任した。

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sage
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