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何でも書こう
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世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   764  > 

 寛正五年(1464)元胤が早世すると、千葉氏にも暗い蔭が生じ、抗争につぐ抗争が起
こる。元胤のあとは教胤(弟ともいう)が継いだが、十四歳の少年であり、中村越前守
が教胤を補弼した。他方、胤鎮に討たれた胤紹の子胤朝は、若い教胤が千葉氏を継いだ
のをみると、これにとって代わらんとして大内政弘を恃んで九州探題渋川教直に通じた
。これに、与賀・川副を領する今川胤秋が加担した。翌六年教胤の家宰中村胤頼が佐嘉
郡新庄にあった今川館を攻撃、胤秋らはこれを迎え撃ち、激戦の末に双方とも兵を引い
た。翌文正元年(1466)、千葉教胤はふたたび胤秋を攻撃、対する今川勢は探題渋川氏
と結んで、応仁元年(1467)小城に進攻した。これを迎え撃った教胤は探題・今川連合
軍を撃破、今川胤秋、胤弘の兄弟は戦死し、与賀・川副は千葉氏が収めた。その後文明
二年(1470)、胤秋の子義秋が勢力回復を狙って挙兵したが、千葉勢の前に敗れて以来
九州今川氏の嫡流は断絶した。今川氏の手勢は以降深川と名乗った。千葉氏と今川氏が
戦った応仁元年、京都では「応仁の乱」が勃発し、世の中は戦国乱世へと推移していく
。乱の余波は九州全域におよび、大内氏と少弐氏とが筑前で戦いを展開し、少弐氏の当
主教頼が討死した。文明元年、千葉教胤は西郷氏や大村家親を討たんとして藤津郡に出
陣したが、おりからの悪天候によって乗船が転覆して水死を遂げてしまった。その結果
、胤朝が迎えられて千葉氏の家督を取った。ところが、重臣の中村胤明と岩部常楽とが
反目するようになって治められず、ついに胤明は常楽のことを胤朝に讒言、これを信じ
た胤朝は常楽を討とうとしたが、この事態を察した常楽は、僧籍にあった胤朝の弟胤将
を擁立し、少弐教尚を恃み一揆を起こしたのである。一揆は中村胤明を討って出て、小
城城下に入り放火した。このため在家寺院ことごとく焼亡した。しかし、胤朝を屈服さ
せることはできず、ついに将軍の旨が下り、胤朝と胤将兄弟の間に和議が成ったのだ。
ところが、それから十六年後の文明十八年(1486)、胤将が胤朝を襲って殺害した。こ
れをきいた少弐政資は、胤将を討ち取ろうとしたが、将胤は出奔し千葉氏は断絶に直面
した。そこで、政資は胤朝の女に弟を配して千葉氏を相続させ、胤資と名乗らせて晴気
城主とした。ここに、胤朝の弟胤盛の子胤棟(興常)がいた。胤棟は大内氏を頼って育
ち本家に敵対心をいだき、延徳三年(1491)、大内政弘の支援をえて胤資と戦った。そ
して、牛頭山城に拠って東千葉(祗園千葉とも)を称した。こうして、以後、晴気の本
家を西千葉とよび、千葉氏は東西の両千葉家に分かれたのである。

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