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何でも書こう
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 こうして朝廷からの千葉勢を敗退させたものの、ところが、文明元(1469)年6
月、教胤が大村日向守家親との戦いで討死を遂げると、執権の中村胤明・岩部常楽の要
請を受けて胤朝は念願の千葉惣領家の座につき「国府」小城に入ったのだった。なお、
この「国府」とは千葉家の本拠地・小城のこととある。つまりここで武雄は旧国府とし
て残っていたが力が無かったのだ。7月なってから、岩部常楽は佐嘉郡統治のため、本
当の「国府」のあった府中尼寺館の武雄方面へやっと移っている。そんなころに、大内
政弘が上洛して留守の間に、大内勢によって対馬へ放逐されていた少弐頼忠(のち政尚
、政資)が旧領奪還の活動をはじめたのである。文明元(1469)年正月、対馬島主
・宗刑部大輔貞国は将軍義政に様々に請いて賄賂が効いて、少弐頼忠に「本府へ帰り入
るべき旨、安堵の御教書」を手に入る事になった。そして7月、「対馬島主宗貞国挙兵
、奉教頼之子頼忠而往、沿路諸酋護送助之、遂至宰府悉復旧境」(『海東諸国記』)と
あるように、少弐頼忠は宗貞国の支援のもと、渡海して筑前国に入り、大内勢を追い払
って太宰府を奪還した。その後に「頼忠既至宰府、令貞国守博多、貞国身留愁未要時、
遣麾下守博多」と、交易の中心であった博多防衛のためと貞国の麾下を派遣させる事を
宣言し触れ回って占領している。一方、千葉家では岩部常楽を妬んで、中村胤明が常楽
を讒言し、胤朝はこれを信じて、常楽の追討を計画する。しかし身に覚えのない常楽は
起請文を出して謝罪し、無実を訴えるが胤朝は信じず、常楽はやむなくこの太宰府の、
少弐頼忠に仲介を頼んだ。これを承諾した頼忠は胤朝を取りなしたため、その場は収ま
った。ところが、胤朝は9月9日、岩部常楽の誅殺を図り、密かに仁戸田近江守の手勢
を府中尼寺館に向かわせた。尼寺館に着いた仁戸田近江守は兵士に鬨の声を揚げさせた
が、ちょうどこのとき日ごろから常楽の善政を慕っていた領民たちが重陽を祝って盛大
な酒盛りを行っており、仁戸田勢の鬨の声を聞いた領民たちは「爰こそ岩部殿の厚恩を
報ずる所よ」と、一万余人がいっせいに咆哮。山河にこだました。これに仁戸田近江守
は大軍勢が集結していると勘違いし、「思ひしに相違」して驚き慌て、一戦もすること
なく小城へと逃げ落ちた。と言う。これに怒った常楽は少弐政尚に胤朝追討を要請する
が、政尚は許さず、常楽はやむなく尼寺館から逐電した。となっている。文明2(14
70)年当時の九州北部は、大内政弘が西軍の主力として上洛中であり、東軍に属する
大友親繁や少弐政尚の勢力が優勢であった。そこへ大内政弘の叔父・大内南栄道頓が、
にわかに東軍に属して挙兵した。2月4日、将軍義政は大友親繁らに対して道頓と協力
して大内政弘を追討するよう命じている(『将軍家御教書』)。明らかな無理強いに、
一応は中村少弐氏側も岩部常楽に対して兵を上げた振りをして大内氏の少弐頼忠をなだ
めたのではなかったのか。と推測する。
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