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何でも書こう
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世界新時代の  52   < 小日本とアローンの志士   770  > 

1559年。北九州勢力の独立支援を大義名分に抱えた毛利家と、北九州の統治を狙う大友
家の戦いが開幕します。毛利家は先手必勝とばかりに最前線・関門海峡に築かれた城で
ある門司城を占拠。毛利元就との密約により毛利家は九州には攻めてこないだろうと思
っていた大友宗麟は完全に出鼻をくじかれている。大内氏からの連絡が遅かったのであ
る。すぐさま大友宗麟も大軍を率いて自ら軍を指揮し、門司城奪還へと向かいます。が
したたかな毛利は罠をはり周防灘で待っていたのは毛利の勇将達を率いる毛利家三本の
矢の一矢、小早川隆景。皿に毛利家自慢の村上水軍とその呼びかけに応じた各地の水軍
であった。これらの攻勢により敗退。門司城の奪還は失敗に終わり、大友軍は退却に追
い込まれる。その上追いうちをかけるように小早川隆景は水軍を率いて大友家の退却路
に先回りして襲撃し、この戦いで大友軍は思わぬ大被害を受ける羽目になりました。こ
の「門司合戦」では、毛利はゆうゆうと軍を進め各地の城を落として行った。と言われ
ている。しかし水軍船との両面作戦で沿岸の城を落とすのが関の山と見られていた。が
日を追う毎に、それは内陸に押し寄せた。毛利が文を送ったのは残った菊池や新参の龍
造寺や島津、更にキリスタンを嫌う長崎の諸将と四国の将である。こうして囲まれてし
まったが、ここに豊後の虎がいた。猛者の三将と言われた、高橋紹運や戸次道雪更に、
蒲池治久である。蒲池氏はあまり知られていないが、広く縁戚を持った坂東武者の九州
下向でいち早く菊池氏と共に生きた士族である。嵯峨源氏の源久直(蒲池久直)を直系
とし、久直は、平安時代後期の平清盛の全盛時代の仁安3年(1168年)には九州の肥前
国の天皇家直轄荘園の神埼荘(鳥羽院領神埼荘)に荘官(荘司)として下向している。
つまり諸将の頭として従五位下の貴族の位を保持した嵯峨源氏の源満末の孫として信望
が厚かったのだ。だから彼の動向には大友と言えども気を使った。当時の陣容も、蒲池
義久嫡子は繁久時代には、次男の大隈は今村氏(今村大隅の子孫は江崎家、内田家が残
る)を、三男の家久(鎮貞)は犬塚氏、四男の泰秀(久種)は酒見氏、五男の親房は城島氏
を名乗ってそれぞれ在地豪族の名跡を継いでいた。更に遠祖の蒲池氏の信任を受け、蒲
池繁久自身は大友氏の意向で、蒲池治久の時代の時に蒲池氏を兄・蒲池鑑久と弟・蒲池
親広の二家に分割し、同格大名分と分け、蒲池氏は柳川の蒲池鑑久の嫡流(下蒲池・家
紋:左三巴)と山下の蒲池親広の分流(上蒲池・家紋:下り藤)に競わせたが、失敗し
逆に家臣が大内氏になびき大友氏勢同志で戦う羽目になる。

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