ケツデカ女
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1:
名無しさん
:06/12/01 19:21 ID:???
可愛らしい小尻の女がイイ!などと本音で言う野郎は
実は、間違いなく超少数派!
オスは本能的にも生物学的にも
巨尻のメスを求める生きものである!
よっておのおのがた、ケツのデカい女を語るべし!
142:
名無しさん
:06/12/15 21:56 ID:???
?
143:
名無しさん
:06/12/16 05:07 ID:???
巨尻・松たかこ
144:
名無しさん
:06/12/16 07:55 ID:???
仲間ユキエが意外とでかいらしいな
145:
名無しさん
:06/12/16 09:43 ID:???
磯山はケツでか
146:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
147:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
148:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
149:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
150:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
151:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
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それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
152:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
153:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
154:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
155:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
156:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
157:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
158:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
159:
名無しさん
:06/12/17 06:55 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
160:
名無しさん
:06/12/17 06:56 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考えるとわかりやすい。文化人類学的にいうと、ある民族(一つの共同体)に言葉が成立するまでに一万年かかるそうであるが、その言葉のもつ役割は他の民族との排他性にあり、またそれによって同時に民族(共同体)への帰属意識の萌芽、つまり民族(共同体)の自己同一性に直接的に関わってくるのである。これを考えれば、私たちが日本語を話している限りは、日本文化の根絶はあり得ないが、それさえあれば良いというものではない。重要であるのは文化とは意識せずとも厳然と存在するが、その存在が希薄になるほど、国民意識の離散は必然であるという事実である。国民意識の離散は、精神がその拠りどころをなくすために、身勝手で低級な概念に漂着してしまう。そこからは拝金主義者や国賊、奸賊が蛆虫のようにわいてくる。拝金主義者や、国賊、奸賊は私腹を肥やすために、自らの母胎となるものをさらに腐食させ、食いものにしていく。少数の蛆虫なら手で払えるが、残念ながら、現在においてはその払う手さえも腐食せられつつある。本来、その手の役割をするのが若者であるべきであった。しかし、この蛆虫共は、あざとくこれに対しても早期に策を打って出ている。その策が現在の教育である。教育とは学校機関を通したものだけに限定されない。それはテレビを通して伝達される情報を始めとした新聞や図書など活字情報まで含めたメディア、すでに腐食された廃退者たちによる社会教育などもすべてを指す。とりわけ学校における廃退教育はあまりにもひどい。我々の祖先が幾千年もかけて築き上げてきた、文化という名の不可視な足場を故意に無視した教育が為されている。学校とは日本人全てが通る道であるために、その負の効果は計り知れない。学校でそうした教育をする腐敗教師がさも誇らしげに掲げるものが、「個性の尊重」や「自由」である。そうした教師達の中には、その稚拙な信念の行動による具現化として、日の丸に対する敬礼拒否や、国歌斉唱拒否をさも大事を成し遂げたかのような顔をしてやる者もいる。日の丸敬礼や国歌斉唱は、日本民族であることを再確認するための行為であり、民族への自己同一性への確認行為である。「個性の尊重」や「自由」の概念は西洋でできた舶来品である。日本はそれを許容するならば、土着の文化に見合った仕方で定着させるべきであり、美しく見える虚構に耽溺すべきではない。自らの文化を否定するこのような一連の行為は結局のところ、その当事者自身が彼と彼に至る過去の祖先たちを否定するという矛盾した行為を意味するのである。そうした教育者たちによる、そうしたことを背景にもつ教育を受けた被教育者たちはどうなるのか。そうした被教育者たちは無自覚な、基盤のない「自由」と自己中心的な「個性の尊重」を押しつけられる。基盤にこれまでの確たる文化がないために、そうした被教育者たちは文化への回帰性を持ちにくい。さらに教育者たちは釘を打つために、被教育者たちへ、精神の柔軟性を説く。「他の文化には寛容に、そして人の言うことは素直に受けとめましょう」。その基盤に日本の文化がありさえすれば、それも是認できよう。しかしこのような無根拠な彼らの教育は自己欺瞞、自己否定以外の何者でもない。だから私たちは、断固として、このようなあり方に反対しなければならない。ところが、そうした教育を受けてきたのが、当の私たちなのだ。私たち若者世代は、先のような道徳とある程度の経済的な余裕の中で育てられてきてしまった。「パンとサーカスを与えておけ、さすれば民は幸福だろう」とローマのユウェナリスが言ったが、この状態そのままが、今の日本の若者にあてはまる。現在の若者の持つ道徳は、奴隷の道徳ではないか。奴隷が反乱を起こさぬように、かつ彼らを保存するために、仕立て上げられたものだ。こうした道徳を植え付けるための教育は、現在の若者の病気の一つの根本原因である。この病気は同胞意識の欠落、言語の乱れ、犯罪の増加…など多くの症状にあらわれる。同胞を顧みないがために、日本を金で売るような者たちが、日本に与える打撃は計り知れないものがある。このような者をこれから出さないためには、教育に日本の伝統と文化を基盤にすえた愛国心教育が必要であると私は考える。政治的に雑多の問題が多くためにそれをも持ち出して批判する方々も多いだろうが、このセクションでは病気の根本原因が主題であるので、そこに関しては各々で考えていただきたい。また、ここまで読んでくれた方々に対して、一言申し上げておきたいのは、私は国粋主義者で右翼的ではあるけれども、ファシズムを主張しているわけではないということである。ファシズムは丁度、今話題の自民党の一党独裁的な政治形態のことであって、それは、文化という地盤がすえられていないものであるという特徴がある。そもそも、右翼、左翼などという選別の仕方が愚かしいが、聞かれれば、国粋主義であり、右翼的であることは否定しない。なぜならば、世界を見て欲しい。世界の国々の基本理念は、自国の文化を基盤とした政治形態ではないか。国際社会の中で、良好な関係を気づくには、主従関係であるより、対等な関係であるべきであって、対等な関係とは、自国の特質を十分に把握した上で築かれるものだ。そうした、自国の特質を意識的に明らかにしようとするならば、どうしても右翼的で国粋主義的な姿勢をとらざるを得ない。
話題が少しそれてしまったが、次に病気にかかってしまった若者にあるまじきその症状について述べ、その病気をどう治療していくかについて一つの提案を、このセクションにてしようと思う。まず、若者にあるまじき病気の症状とは、大きなものに対する怒りの消滅である。怒りは抵抗を生む。その怒りが消え失せてしまったがために不正に対してあきらめと、無関心が前面におしだされる。この症状はさらに他の症状も併発する。その併発するものの中に特に致命的なものは、未来への投企の能力だ。伝統と文化は、過去から連綿と現在の私たちに受け継がれ、本来は意図せずとも投企の能力は、伝統と文化の時間の連続性の内に包括されているものだが、現在ではその消失が意識せられるほど病気は進行している。伝統や文化をないがしろにしてきたからこそ、経済的繁栄に成功したのだと主張し、そこに誇りを持つ人もいるが、そのような人はもう末期的だ。人間の精神は「カネ」じゃない。このような態度に終始してしまうならば、経済のために他国に追従しなければならないような犬になってしまう。我々は去勢された犬になるべきではない。自民族の文化の保存能力の欠如と他国への追従は、まさにその去勢された犬以外の何者でもない。この病気にかかってしまった我々が、どのように我々自身でこの病気を治療するかの提案を次にしたい。私の提案する治療法は、我々自身の精神内部の価値の徹底的な破壊である。要は自己破壊である。すべてを壊すのだ。否定をして否定をして、さらに否定を重ねた結果、疑いきれない我の存在も否定するのだ。「我思うゆえに我あり」という思考は、この徹底的な自己破壊の三歩ほど手前である。我々のかかった病気は、我々のその最深とされる自我さえも冒してしまっている。だからすべて壊すのだ。そうした徹底的な自己破壊はやがて透徹した自我を生成する原因となる。一つ注意しておきたいのは、ここにおいて自我を生成することに失敗してしまうことだ。失敗すると徹底したシニシズムに堕してしまう。補足的に説明すると、成功し透徹した自我を生成するということは、能動的ニヒリズム、つまり自己破壊によってすべての事物を無価値であるとした状態からこの世界に積極的に挑戦していく態度を獲得していくことであり、またその挑戦は自国の伝統と文化を基盤とするようになることである。一方これに失敗し、シニシズムに堕するということは、すべての事物に対して常に冷笑的である態度に終えるという事である
「若者とはどのような存在であるか」とか書き込んでるヤツ・・・
てめぇの存在とは無視される存在ってことが、分かってねぇようだな。
誰もおめぇのくだらねえ文章読まねえぜ
それでもよけりゃずっと書いてろ
あとリチャードコシミズもな
161:
名無しさん
:06/12/17 06:56 ID:???
若者とはどのような存在であるか日本民族としての意識が低下し、一部の政治家を始めとする国賊、奸賊が増え、名だけで実のない日本になりつつある現在、これからの日本を背負う若者、学生同志に向けて、真の若者像を示し、何らかの変化を望むがために、この文を書くことにする。
まず若者の世界共通の特徴とは何であるか単純な解答は肉体が若いということである。肉体の若さは若者の最も重要な特徴の一つであり、それを規定付けるための軸となる。また若者は肉体と同時に、透徹した精神をも本来はもつものである。老年になれば、常識や雑多な人間関係に縛られた上に、肉体的にも限界が生じてくることがほとんどだ。私は、現在の日本の若者は、肉体は若いが精神が老化するという病気に冒されていると考える。
若者を病気に至らしめている原因は何なのかまずはその原因から明らかにしたい。いくつか原因はある。その原因の最大なるものは教育と、それに裏打ちされた低級な道徳である。教育とは何のためにあるのか。職や学歴のためではない。日本の伝統と文化のためにある。こういうと勘違いするものが多くあるが、よく考えて欲しい。日本の伝統と文化とは何か。経済活動が重視され、拝金主義によって飼い慣らされてしまった思考によっては、これに対する解答を出すことは一生かかってもかなわないだろう。日本の伝統と文化とは、私たち日本人の一つ一つの言葉から、行動、五感を通して行われる認識、その認識の仕方、思考まで、全てを包括する空気のような存在である。伝統と文化とは、その伝統と文化をもつ共同体の自己同一性の一貫性とその双方向の働きかけによって実在する。伝統と文化の一つである言語を例に考え