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スマナサーラの上座仏教入門
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8:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:12 ID:cs
智慧には主観がありません。 主観のないとき、智慧が表れるのです。 主観がないと、あるのは出来事だけ。 そのときには、唯一の答えがあります。 そこに選択肢はないのです。だから、智慧のない人は、何かあったら 「どうしよう どうしよう」と悩むのです。知識はやがて消えますが、智慧は消えません。 智慧は、主観を破った状態であらわれます。 それは特別な「何かを得た」ことではないのです。 「なった」世界です。

あれもこれも、とりとめもなく考えるのは 実は考えていないということなのです。 深く考えているようでも それは智慧のある人とは言えません。 智慧のある人はすぐに答えがみえるので 考える必要がないのです。 智慧とは水のようなものです。 形はありませんが、その都度その都度、何の抵抗もなく 容れ物のかたちをとります。 過去のことや将来のことで 頭を混乱させないでください。


9:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:12 ID:cs
『無常の見方』
一切は変化する それが事実です。無常に例外はありません。事実を受け入れると、人生は明るく変化します。

幸福」「不幸」をつかさどるのは誰? 「幸福は神、不幸は悪魔によるものだ」というのは、「私は悪くないのだ」という考え方です。自分の幸・不幸を決めるのは自分なのです。 優れた禅友も、一番恐ろしいのも「「自分の心」。

人類はみな、人に、社会に、地球に依存するパラサイトです。俗世間が求める自由も「依存」にほかなりません。現代の社会は、一方的に依存する個人や組織をつくり出し、みずからの拠って立つ基盤をつき崩しています。いま求められるのは、依存症を克服し、完全な自由を得た「孤独」の人です。破るべきは人間の心の潜む「エゴ」であり、孤独の達成こそが、人生の到達点なのです。


10:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:13 ID:cs
人はなぜ物質を切望するのか、物質主義の危険性それでも欲しいものがあると楽しい?

世界は肉体のみを考える肉体のためにのみ生きるとは切り離せない心と体、体と心の醜い争い

仮想の世界に浸っていませんか、幻想世界の果てにそれでも仮想世界に生きたい仮想の世界から現実の世界へ

精神と物質すべての物事の先頭に心がある。すべては自分の心次第心を砦に


11:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:13 ID:cs
自立への道人間は依存せずには生きられません。しかし、「一方的に依存するパラサイト」は、様々な社会問題を引き起こします。人間は社会に貢献し、「正しい相互依存」を築く必要があります。さらにお釈迦さまは、心を清らかにすることで得られる「何にも依存しない自立した人生」を説かれました。

闇雲に充実感を求めても、一時的な満足に浸るのが関の山。すぐに不安・不満・退屈に苛まれます。世間の価値観に流され、刺激に翻弄される私たちの生き方は、およそ「有意義」からほど遠いものなのです。だからこそ、私たちが耳を傾けるべきは、智慧ある賢者の言葉です。

すべての生命は「死にたくない」と望みながら、殺して食べて、生きています。「生きる」ということ事態に、根源的な矛盾があるのです。世間の平和論は、こうした「生存の矛盾」を棚上げしています。これでは平和が続くはずもなく、やがて戦争が訪れるのです。


12:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:13 ID:cs
私たちは「もう怒りたくない」と思っても、怒ってしまいます。自分の意思ではどうにもならないものが、怒りです。仏教では嫉妬、物惜しみ、後悔、軽視など、十種類の感情も、怒りの姿を変えたものだといいます。生命の根源にあるもの、それは怒り、生きることの矛盾に真正面から答えを出します。

私は正しいと思うから怒る

なぜそこまでして「わたし」を消し去らなければならないのか? といえば、「怒り」は「わたし」のエゴから生まれるからなのだと思います。たとえばなぜ私たちが怒るのかと言えば、それは「私が正しい」と思っているからです。たとえば電車で隣のおっさんがこっちを触って来たとか、あるいは道で困っている人を助けてあげたら特にお礼もいわずにいってしまったとか、そうやって怒るのは「電車で触るのは間違いで」「人に助けられたらお礼を言わなければならない」という常識で持って、「私は正しい、あの人は間違っている」と判断しているからです。


13:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:14 ID:cs
相手の方が正しい、と思っていたら、だから私たちは怒らんのです。ただし私たちは往々にして「自分こそが正しい」と思ってしまう。それは、間違いだ、というんですね。そりゃそうです。完全な人間なんかいるはずはありません。誰だって間違いをおかしますものね。「自分は常に間違いを起こす可能性がある」事を常に頭の片隅に入れながら、もし相手が間違っている「かもしれない」と思ったならば、「ひょっとしてあなた、少々間違えているのでは?」と冷静に尋ねればいいと言っているのです。

怒らない為の方法

お釈迦様は殺されそうになっても嫌だと思うなとかアホな事を言うし、怒るのは私が正しいと思うせいだと言うしで、じゃあどうすれば怒らないでいられるのかといえばこれが非常にシンプルな一言で、それは「怒らないことだ」と長老は言うのです。「怒らないこと」ってなんやねんと思いますけど、それが唯一の正解なんです。


14:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:14 ID:cs
たとえば怒りが沸き上がってきて、ぐぐぐっと抑える方法のようなのを私たちは「怒らない方法」と聞くと想像してしまうのですけれども、そうやって抑え込もうとする力もまた、「怒りである」というんです。今更怒りの定義のような話をすると、「いま楽しい?」と自問して、「楽しくない」と思ったらその時その人は怒っているのです。だから少しでも人生が楽しくなくなったら、その人はその時怒っているのです。

怒りを抑えることが楽しいはずありませんから当然その人はその時怒っているのです。なので怒らない最大の方法は、そもそも「怒り」を発生させないことなんですよね。そしてその為の方法として、「私は間違いだらけ」だと知れ、というのです。まあ「私が正しい」と思うから怒るんですから、当然ともいえます。腕を切り落とされようが、頑張っても報われなかろうが業績を横取りされようが、決して否定しない。


15:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:15 ID:cs
その究極の形が、たぶんお釈迦様のいう「わたし」を消すことなんでしょうね。他者から害される「わたし」が消えてしまえば、どんなにひどいことされようが怒りようがありません。まあそんなん現実的に考えて無理なんですけど、「わたしは間違っている」し、「相手も間違う事がある」という前提にたって物事を考えると、あまり怒ることもなくなるのです。

だからといって、相手が何をしようが「おーけーおーけー」と許容の態度を示すのも、また間違いであると言うのですね。子供が目の前で悪い事をしていたら、ちゃんと叱らないといけないと。ただ怒らないで、「それは間違いである」ときっぱりと言うだけ。その答えに愛情と自信さえあれば相手はちゃんと聞くと言っています。
16:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:15 ID:cs
お釈迦さまが言うには、たとえば恐ろしい泥棒が来て、何も悪い事をしていない自分をつかまえてこいつを切ってみよう、面白いよ、というだけの理由でこっちを切ろうとしてきても、『嫌だ』と怒ってはいけないのだそうです。「そんなバカな」と僕などは思ってしまうのですけれども、どうもお釈迦様的に言えば「わたし」というエゴ的な部分を、完全に捨て去ることから幸福が生まれる、とそういう意図らしいんです。「わたし」なんかないんだから、切られたって別に嫌じゃないというのです。

まあ何はともあれ幸福に生きる為には、「怒らないこと」であり、怒らないためには「怒らないこと」であり、「わたし」を消していき、理性でもって正しい事と間違っている事を判断していくことが必要である。そういうことです。


17:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 14:15 ID:cs
「業(カルマ)とは何か?〜“業の性格”を理解して人生に勝利する方法」
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