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スマナサーラの上座仏教入門
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1:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 12:48
怒るといちばん最初に自分が汚染される
怒りは自分を破壊し他人を破壊する 省12
6:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 13:05
妄想は猛毒です。 妄想があるゆえに、ストレスが起きます。 妄想があるゆえに、人生なにをしても苦しみと失敗で終わるのです。 だから、まずやるべきことは妄想を停止させることです。混乱しているのは、じつは頭の中で妄想がぐるぐる回っているのです。妄想をやめること。 つまり「過去」と「将来」に心をさまよわせず いまに気付いて生きること。 妄想を止めるために、気づきを精進するのです。 心を暴走させることなく いまの瞬間につけておく訓練をするのです。

役にたつ知識は宝になりますが 何の役にも立たない知識はゴミです。 世の中では、テレビや週刊誌などから 興味本位に情報が垂れ流されます。 それらは、欲望をあおって不安をかき立てているだけの 無用な残飯のようなものです。 無駄な知識は不要なだけでなく かえって命取りにもなります。 あまりによけいなことを考えすぎて妄想が膨らんでしまいます。そのため、いつも不安と焦りで追い立てられるような生き方になってしまうのです。

智慧には主観がありません。 主観のないとき、智慧が表れるのです。 主観がないと、あるのは出来事だけ。 そのときには、唯一の答えがあります。 そこに選択肢はないのです。だから、智慧のない人は、何かあったら 「どうしよう どうしよう」と悩むのです。知識はやがて消えますが、智慧は消えません。 智慧は、主観を破った状態であらわれます。 それは特別な「何かを得た」ことではないのです。 「なった」世界です。


7:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 13:06
あれもこれも、とりとめもなく考えるのは 実は考えていないということなのです。 深く考えているようでも それは智慧のある人とは言えません。 智慧のある人はすぐに答えがみえるので 考える必要がないのです。 智慧とは水のようなものです。 形はありませんが、その都度その都度、何の抵抗もなく 容れ物のかたちをとります。 過去のことや将来のことで 頭を混乱させないでください。
省14
8:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 13:06
人類はみな、人に、社会に、地球に依存するパラサイトです。俗世間が求める自由も「依存」にほかなりません。現代の社会は、一方的に依存する個人や組織をつくり出し、みずからの拠って立つ基盤をつき崩しています。いま求められるのは、依存症を克服し、完全な自由を得た「孤独」の人です。破るべきは人間の心の潜む「エゴ」であり、孤独の達成こそが、人生の到達点なのです。

自立への道人間は依存せずには生きられません。しかし、「一方的に依存するパラサイト」は、様々な社会問題を引き起こします。人間は社会に貢献し、「正しい相互依存」を築く必要があります。さらにお釈迦さまは、心を清らかにすることで得られる「何にも依存しない自立した人生」を説かれました。

闇雲に充実感を求めても、一時的な満足に浸るのが関の山。すぐに不安・不満・退屈に苛まれます。世間の価値観に流され、刺激に翻弄される私たちの生き方は、およそ「有意義」からほど遠いものなのです。だからこそ、私たちが耳を傾けるべきは、智慧ある賢者の言葉です。

すべての生命は「死にたくない」と望みながら、殺して食べて、生きています。「生きる」ということ事態に、根源的な矛盾があるのです。世間の平和論は、こうした「生存の矛盾」を棚上げしています。これでは平和が続くはずもなく、やがて戦争が訪れるのです。


9:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 13:07
私たちは「もう怒りたくない」と思っても、怒ってしまいます。自分の意思ではどうにもならないものが、怒りです。仏教では嫉妬、物惜しみ、後悔、軽視など、十種類の感情も、怒りの姿を変えたものだといいます。生命の根源にあるもの、それは怒り、生きることの矛盾に真正面から答えを出します。

私は正しいと思うから怒る

なぜそこまでして「わたし」を消し去らなければならないのか? といえば、「怒り」は「わたし」のエゴから生まれるからなのだと思います。たとえばなぜ私たちが怒るのかと言えば、それは「私が正しい」と思っているからです。たとえば電車で隣のおっさんがこっちを触って来たとか、あるいは道で困っている人を助けてあげたら特にお礼もいわずにいってしまったとか、そうやって怒るのは「電車で触るのは間違いで」「人に助けられたらお礼を言わなければならない」という常識で持って、「私は正しい、あの人は間違っている」と判断しているからです。

相手の方が正しい、と思っていたら、だから私たちは怒らんのです。ただし私たちは往々にして「自分こそが正しい」と思ってしまう。それは、間違いだ、というんですね。そりゃそうです。完全な人間なんかいるはずはありません。誰だって間違いをおかしますものね。「自分は常に間違いを起こす可能性がある」事を常に頭の片隅に入れながら、もし相手が間違っている「かもしれない」と思ったならば、「ひょっとしてあなた、少々間違えているのでは?」と冷静に尋ねればいいと言っているのです。


10:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 13:09
怒らない為の方法

お釈迦様は殺されそうになっても嫌だと思うなとかアホな事を言うし、怒るのは私が正しいと思うせいだと言うしで、じゃあどうすれば怒らないでいられるのかといえばこれが非常にシンプルな一言で、それは「怒らないことだ」と長老は言うのです。「怒らないこと」ってなんやねんと思いますけど、それが唯一の正解なんです。

たとえば怒りが沸き上がってきて、ぐぐぐっと抑える方法のようなのを私たちは「怒らない方法」と聞くと想像してしまうのですけれども、そうやって抑え込もうとする力もまた、「怒りである」というんです。今更怒りの定義のような話をすると、「いま楽しい?」と自問して、「楽しくない」と思ったらその時その人は怒っているのです。だから少しでも人生が楽しくなくなったら、その人はその時怒っているのです。

怒りを抑えることが楽しいはずありませんから当然その人はその時怒っているのです。なので怒らない最大の方法は、そもそも「怒り」を発生させないことなんですよね。そしてその為の方法として、「私は間違いだらけ」だと知れ、というのです。まあ「私が正しい」と思うから怒るんですから、当然ともいえます。腕を切り落とされようが、頑張っても報われなかろうが業績を横取りされようが、決して否定しない。
11:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 13:09
その究極の形が、たぶんお釈迦様のいう「わたし」を消すことなんでしょうね。他者から害される「わたし」が消えてしまえば、どんなにひどいことされようが怒りようがありません。まあそんなん現実的に考えて無理なんですけど、「わたしは間違っている」し、「相手も間違う事がある」という前提にたって物事を考えると、あまり怒ることもなくなるのです。

だからといって、相手が何をしようが「おーけーおーけー」と許容の態度を示すのも、また間違いであると言うのですね。子供が目の前で悪い事をしていたら、ちゃんと叱らないといけないと。ただ怒らないで、「それは間違いである」ときっぱりと言うだけ。その答えに愛情と自信さえあれば相手はちゃんと聞くと言っています。

お釈迦さまが言うには、たとえば恐ろしい泥棒が来て、何も悪い事をしていない自分をつかまえてこいつを切ってみよう、面白いよ、というだけの理由でこっちを切ろうとしてきても、『嫌だ』と怒ってはいけないのだそうです。「そんなバカな」と僕などは思ってしまうのですけれども、どうもお釈迦様的に言えば「わたし」というエゴ的な部分を、完全に捨て去ることから幸福が生まれる、とそういう意図らしいんです。「わたし」なんかないんだから、切られたって別に嫌じゃないというのです。

まあ何はともあれ幸福に生きる為には、「怒らないこと」であり、怒らないためには「怒らないこと」であり、「わたし」を消していき、理性でもって正しい事と間違っている事を判断していくことが必要である。そういうことです。
12:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 13:10
「業(カルマ)とは何か?〜“業の性格”を理解して人生に勝利する方法」
省17
13:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 13:10
自分の目的が壊れてしまうことが一番の弊害です。私たちはご飯を食べたい、良い服が着たいという風に普段から持っている何のこともない目的と将来どうしましょうかなどの大きな目的まで、持って生きています。つまり、人生は目的を持って歩むことです。でも、怒ると、その目的が壊れてしまうんですね。これはとても大変なことです

覚えておいて欲しいことがあります。それは、この「生きる」というシステムが、簡単に怒ってしまうように出来ていることです。怒らない人間ははいません理解する。それでも、簡単に怒ってしまってはいけないと覚悟しなくてはいけません。小さな子どもが立ちたいけど立てなくて泣いてしまったりしますが、泣くのも怒りから来るものなんですね。上手くいかないって(笑)。 人生そう簡単には上手くはいきません。人生は障害の連続であり、挑戦して挑戦して、頑張って、それでもなかなか上手くいかないものです。だから、上手くいかないのは普通なことだと思って、最初から怒るのではなく、乗り越えていくことが大切です。そのことを覚えていけば、例えば高い壁にぶつかったときも『そんなもんや』と思えるでしょう

そんな簡単に心は平穏にはいられませんし、今の経済状況や会社の事情は、個人では何もすることができません。でも、落ち込んでも、それも怒りですが、仕方ありません。余計なプライドを捨てて、どんな小さなことでも、謙虚なこころで、行うように前向きになって生きることです。


14:アルボムッレ・スマナサーラ 01/28 13:10
話というのは、喋る人に責任があります。聴いている人の気持ちを考えながら、喜びを与えるように喋らないといけません。だいたい、「私の話をしっかり聞きなさい」という態度で話す人がいますね。子供達に教える時はよく見える現象です。相手に聴く意欲が起こるように、こころに喜びと興味が起こるように話す義務が話す相手にあるものです。話をしている場合は、常に相手が聴いているか、理解しているかをチェックしながら話すことです。

その方が正気のときにこう言ってあげてください。『あなたの本心は鬼だよ』、と。お酒によってその人の被っている穏やかな性格と言う鎧が脱げ、本心が出ます。だから普段は、鬼と正気がぶつかっているはずです。普段から良い顔を見せるのは苦しいことですけど、正気でいないといけません

スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年スリランカに生まれる。13歳で出家となる。スリランカの国立大学で仏教哲学の教鞭をとられたのち、1980年に派遣されて来日。現在は、日本テーラワーダ仏教協会などで初期仏教の伝道、ヴィパッサナー実践の指導に従事されており、修行練磨の誠実温厚な人柄、的確流暢な日本語による説法で定評があります。朝日カルチャーセンター講師の他、NHK教育テレビ『心の時代』への出演も反響を呼びました。スマナサーラ長老は、お釈迦さまの根本の教えを通じて、仏教とは今この場で役に立ち、自ら実践し理解する智慧の教えであることを説かれています。

Rev.Alubomulle Sumanasara Thero

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