1つめの記念スレ


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1つめの記念スレ

1: 騎士剣:05/11/09 17:24 ID:A/yxhPTA
勝手にスレを書き込んで勝手にレスをつけてくれぃ

1663: 名無しさんAA:18/09/06 04:27
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx4

 彼らがようやく商売が軌道に乗りかけたころ、彼らを襲ったのが関東大震災であった
。ローマイヤも殆どを瓦礫に埋もれ、多くを無くしてしまいます。その後、不屈の精神
で再び立ち上がったものの、ドイツではナチが台頭して。祖国は戦争に向かって再び進
んでいく中にあった。遠く離れた異国にいても、やはりローマイヤーはドイツ人。ナチ
からの入党を迫られた。この時ゲッペルスが来日している。「ゾルゲ事件」で知られる
スパイのゾルゲと親しかったことも関係した。不本意ながらナチ党員のバッジをつける
こととなり、それが大きな心労となった模様です。戦争が激しくなるとローマイヤーは
箱根に避難しましたが、長年の苦労がたたり、体は弱っていました。戦後、再び東京で
仕事を再開しますが、1962年に帰らぬ人となりました…。「現在、日本でロースハムは
ハムの代名詞のようにさえなったが、実はこれ日本にしかないものなのである。いま、
私は千種類以上のハム・ソーセージのある国に住んでいるが、ここにも「ロースハム」
というハムはないから、訳語に苦労する。これは、1921年にドイツ人アウグスト・ロー
マイヤーが当時日本で手に入る材料を工夫して作った祖国にもない「ハム」だったので
ある。」「肩の肉やバラ肉を使った後の残りの背肉と、ロースに目をつけた。これで、
日本人の口に合う洋風ハムができないものだろうか。そういう肉をロールにして、だが
、燻製にしたら、日本人には食べ方がわからないだろうから、ボイルにするのがいいだ
ろうと考えた。こうして作り出したのがボイルドハム、つまりロースハムだったのだ」
残り物のロースしてボイル燻製にしたローマイヤ―ハム、これがロースハムだった。

1664: 名無しさんAA:18/09/06 04:27
1936年(昭和11年)11月25日の日独防共協定の締結によりヒトラーユーゲント指導者
バルドゥール・フォン・シーラッハが日独の青少年相互訪問を提案。日本政府がこれを
受け入れた結果、1938年(昭和13年)8月から11月にかけてヒトラーユーゲントの訪日
が行われた。 朝日新聞社の依頼により、北原白秋作詞、高階哲夫作曲、藤原義江歌唱
による歓迎歌『萬歳ヒットラー・ユウゲント:獨逸青少年團歡迎の歌』が作られ、1938
年(昭和13年)10月には日本ビクターからレコードが販売されるなど日本国民を挙げて
の大歓迎を受け、親独気運の醸成に大きく寄与した。 同時期に日本からは各地の学生
、青少年団体職員、若手公務員から成る「大日本連合青年団」(現在の日本青年団協議
会)の訪独団がドイツに派遣され、ナチス党大会の参観、ヒトラーと会見して同盟国の
ドイツの見聞を広めた。と言う。ローマイヤーは21歳で中国に渡り、70歳でこの世を去
るまで50年近くをずっと異国で暮らしていたわけですが、途中、一時帰国はしたそう
です。久留米の松尾ハムには、大正期初頭、ドイツ兵捕虜にハム・ベーコンを提供した
という逸話が残る「松尾ハム製造所」久留米で最初にハムを作った、地元民ご用達の
人気店。と書かれてました




1665: 名無しさんAA:18/09/06 04:29

< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx5

 次の年、1937年3月26日、原節子の叔父、熊谷久虎、川喜多夫妻とともに、ベルリン
に到着、舞台挨拶をドイツ語でするなど注目を集めました。ドイツ公開名は「サムライ
の娘」です。ゲッペルスが絶賛したとも、落胆したとも伝えられています。このドイツ
での舞台挨拶の時、医師ベルツの孫、ディーツが原節子に花束を渡しています。ベルツ
と荒井花子の子であるトク・ベルツは、1940年に日独映画親善大使(自称)として来日
、1945年5月3日に東京で死去します。彼の名は、「ベルツの日記」に残っています。な
お、トクの三人息子、クノ、ゲッツ、ディーツは三人とも第二次大戦で戦死しています

1666: 名無しさんAA:18/09/06 04:29
。原節子一行は、ベルリン・ライプチッヒ・ハンブルク・ミュンヘン・ケルン・デュッ
セルドルフと移動5月20日に、パリに到着。6月16日、ニューヨーク到着。パリでは、
デュビビエやルノワール、ハリウッドではコロンビアのプロデューサーから、原節子は
出演の勧誘をされています。1918(大正7)年3月になって、板東俘虜収容所(現徳島
県鳴門市)のドイツ人俘虜による美術工芸展覧会が開かれました。展示場入口の騎馬像
には「Hie gut Deutschland alleweg! (どこにいようと、そこがドイツだ)」と書か
れていました。もともとはバルト三国付近の開拓を担ったドイツ騎士団のモットーだと
言われています。模範的といわれたこの収容所では、管理者側の配慮もあり、スポーツ
や音楽など文化活動を通して俘虜と地域の人たちとの交流が見られました。また酪農や
食品加工などの技術を日本に伝えました。 板東の地に俘虜としてドイツ人がやってき
てから、戦争が終わり解放された後に、途絶えた交流が復活し現在に至るまで友好を深
めている。久留米俘虜収容所に収容されたアウグスト・ローマイヤーは「ロースハム」
の生みの親で、ロースハムはドイツ人であるローマイヤーが日本で生み出したものなの
で、日本に固有のハムだったが、もう一つ久留米で生まれた物がある。久留米の収容所
にも、約1300人の捕虜が送られており、久留米でも捕虜達による第九の演奏がおこ
なわれた。坂東収容所の第九の演奏から遅れること1ヶ月であった。この頃石橋正二郎
は1889年久留米の仕立物屋「志まや」に生まれ、父が病で兄は陸軍に入営したため
経営を任されることになっていた。石橋は徒弟制度をやめ、給料を払い労働時間を短縮
する、仕事を一番有利な足袋にしぼった。九州には車が一台もなかった時代に車を宣伝
に使う、それまで足袋は種類や文によって値段が違ったのを「均一料金」に統一する。
「志まやたび」の名では古臭いので好きな言葉「昇天旭日」から「アサヒ」を思いつく
。「20銭均一アサヒ足袋」を思いつくや注文が殺到した。ドイツ人捕虜の技術者は、
日本足袋(現日本ゴム)やつちや足袋(現月星化成)といった会社の発展にも貢献した
。彼らが先端的なゴムの配合、接着技術、文房具の消しゴムの作り方などを教えたので
ある。実は久留米の捕虜収容所にいては、亡くなったドイツ兵の墓は久留米競輪場に隣
接した一角にもうけられている。久留米の捕虜となったドイツ兵は、狭い収容所よりは
自ら他の場所での就労を申し出て、足袋の発案やゴム製品の改良に貢献したのである。


1667: 名無しさんAA:18/09/06 04:29
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx6

当時、戦争捕虜は公的には俘虜(ふりょ)と呼ばれた。捕虜収容所を管轄する機関の名
称も俘虜情報局だった。今日、俘虜の語はなじみがないので、本稿では引用部分以外に
は捕虜の語を使用する。またドイツ兵捕虜といっても厳密には、ドイツ人以外にオース
トリア人、ハンガリー人、チェコ人、ポーランド人らの人々が混じっていた。しかし、
圧倒的多数の捕虜はドイツ人であったので、捕虜全体に言及する場合はドイツ兵捕虜の
語を用いる。このドイツ兵捕虜に対して日本は、国際法遵守の精神で対応した。1907年
10月18日にオランダのハーグで調印し、1912年に公布した「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規
則」、いわゆる「ハーグ条約」に拠ったからである。以下、この規則に言及する時は、
ハーグ条約とする。ハーグ条約の第2章俘虜の項の第4条には、「俘虜ハ人道ヲ以テ取
扱ハルヘシ」との条項がある。日独戦争の10年前に起こった日露戦争に勝利した日本
は、欧米諸国から文明国として認められるように努めた。そのためには、収容所内での
捕虜の虐待や強制労働は決して行われてはならなかったのである。しかし1915年11月15
日、久留米収容所で真崎甚三郎所長による捕虜将校殴打事件が起こった。これは、大正
天皇即位の大典に際して、捕虜にビール1本とリンゴ2個が特別に与えられたが、日独
両国が交戦中であることを理由に二人の将校が拒否すると、怒った真崎所長が頬を殴打
したのである。捕虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に、捕虜たちは所長の行為に激し
く抗議し、当時はまだ中立国だった米国の大使館員派遣を要求する大問題に発展した。
真崎所長はほどなく収容所長を罷免された。これはまれな出来事と見てよいであろう。
各地の収容所でも、下級所員と捕虜との間で些細(ささい)ないざこざは起こったが、
虐待といえる暴行はほとんど起こらなかった。1916年始めに撮影された、香川県の丸亀
収容所での収容所所員と捕虜将校との記念写真である。収容所長の石井彌四郎大佐退任
記念写真と思われるが。ここでは前列中央の石井所長は病気がちであったこともあって
、どことなく縮こまっているのに対して、両脇にいるドイツ人将校の方は脚を組んで、
堂々としている。とても捕虜のようには感じられない。収容所での捕虜取り扱いの一面
を示しているといえよう。又、古屋収容所での捕虜達のスナップ写真では、撮影年月日
は不明であるが、服装から冬の季節に収容所の一室の陽だまりで、思い思いのポーズを
とっている姿は、厳格な規律におびえる捕虜の姿といったものはほとんど感じられない

1668: 名無しさんAA:18/09/06 04:30
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx7

 1915年 1月27日に福岡県・久留米収容所で撮られたものは、この日は捕虜たちによっ
て、ドイツ皇帝ヴィルヘルムU世誕生祝賀会が開催された。収容所所員、山本茂中尉が
捕虜たちと和やかに談笑する様子が写っている。山本中尉はドイツの陸軍士官学校への
留学経験のあるドイツ語が堪能な軍人だった。収容所では、更にドイツ語力を磨くため
に、捕虜の一人と日本語およびドイツ語の交換授業を行ったことが、元捕虜の日記に記
されている。なお、日独の将兵を撮影した写真は数多く存在するが、笑顔で写っている
写真は極めて珍しい。故国への便りは無料であったし、捕獲国から月給も支給されてい
て捕虜達は、極めて幸せではあった。ハーグ条約の規則の中から、今日では意外に思わ
れる3点を挙げてみる。第10条「俘虜ハ其ノ本国ノ法律カ之ヲ許ストキハ宣誓解放セラ
ルコトアルヘシ。」宣誓解放は今日では奇妙に感じられる不思議な規則である。が、第
一次大戦時には国際条約に盛り込まれているのである。日独戦争時は、ドイツ領だった
南洋群島パラオにおける「宣誓書」の用例を示してみる。「下記署名ノ拙者ハ當戰争中
ヲ通シテ今後如何ナル塲合ニモ 再ヒ獨逸ノ軍隊ニ加ハルコトノナキコトヲ誠實ニ茲ニ
宣誓ス 大正三年〇月〇日 於パラオ」と言った内容だ。つまり再び自国の軍に揮かな
い事を約束したものだった。国内の収容所でも収容初期に福岡で数名の捕虜が宣誓解放
された。1918年11月11日に休戦条約が締結されると、フランス系(アルザス及びロレー
ヌ地方出身者)、イタリア系、ポーランド系、チェコスロヴァキア系などの捕虜が続々
と宣誓解放され、最終的には百名近い捕虜が宣誓解放された。第16条「俘虜ニ宛テ又ハ
其ノ発シタル信書郵便為替有価物件及小包郵便物ハ差出国名宛国及通過国ニ於テ一切ノ
料金ヲ免除セラルヘシ」と信書の文通を許している。階級によって発信できる信書の数
に違いがあったが、平均して1カ月当たり将校5通、下士3通、兵卒2通の封書・葉書
を無料で出すことができた。故国への便りだけではなく、収容所間でも通信が行われた
。5年余に及ぶ収容期間での俘虜郵便の総数は、故国から捕虜に宛てられたものを含む
と、百万通以上に及ぶと考えられる。日独戦争によるドイツ兵捕虜や捕虜収容所の研究
は、実は俘虜郵便を収集する郵趣家による研究が発端だった。



1669: 名無しさんAA:18/09/06 04:30
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった xx8

 第17条には「俘虜将校ハ其ノ抑留セラルル国ノ同一階級ノ将校カ受クルト同額ノ俸給
ヲ受クヘシ」と、捕虜の待遇に関しては西郷寅太郎東京収容所長の談話が残っている。
「俘虜の月給は陸軍中佐の183円を筆頭として、中尉47円、少尉40円、準士官40円、下
士以下は日給30銭の規定なるが、右はいずれも我国軍人の各官等に準拠せるものにて、
(中略)之はあくまで武人の面目を保たしむるを目途とせる俘虜取扱規定に拠れるもの
なり。尚右月給中将校以上の者は該月給の範囲内にて衣食住其の他一切の費用を自弁す
るの義務を有し下士以下は 各給料の範囲内を以って当方にて一切の賄いをなし与え、
衣食以外の間食又は嗜好品たるみかん、ビスケット、コーヒー、煙草等は、希望により
適宜現品にて支給する規定なり」。と書いている。上記西郷所長の談話に大尉の俸給が
欠けているのは、東京収容所には大尉の階級者がいなかったことと、大尉の地位は敵対
国との交渉で捕虜としなかった事による。後の正式な俸給を円単位に略して記すとして
いる 海軍の場合は大佐262円、中佐200円、少佐137円、大尉82円、中尉55円、少尉46円
、陸軍の場合は大佐240円、中佐183円、少佐129円、大尉75円、中尉46円、少尉42円 で
あった。物価換算等から当てはめると、当時の200円は今日の約160万円(約8000倍)に
相当すると思われる。当時の大銀行の銀行員の初任給は月給40円ほどであった。佐官ク
ラスの軍人は、かなりの高給取りだったことが知れる。又、労役には賃金を支給、技術
指導で重宝した。なお、第6条には捕虜に対する労役の条項がある。労役の言葉はどこ
となく強制労働を想起させるかもしれないが、決してそうではない。「俘虜ハ公務所、
私人又ハ自己ノ為ニ労務スルコトヲ許可セラルルコトアルヘシ(中略)俘虜ノ労銀ハ其
ノ境遇ノ艱難ヲ軽減スルノ用ニ供シ…」。1916年10月の「俘虜収容所長会同ノ際軍務局
長口演事項」という書類の「俘虜労役ニ就イテ」には、次の記述がある。「俘虜ヲシテ
労役ニ従事セシメル必要ハ、(中略)我國産業ノ発達利益ニ資スヘキ職業伎倆ヲ有スル
俘虜ヲ収容所外ニ於テスル利用法ハ、昨年各省次官会議ニ提出セラレ各省ニ於テ 使役
場所、使役方法、賃金、取締方法等ヲ定メ…」と規定している。つまり労役に従事する
捕虜には賃金が支払われたのである。下級の兵卒にとっては格好の小遣い稼ぎで、しか
も収容所外に出られる楽しみでもあったのだ。労役の中には稀に土木工事のような作業
もあったが、多くは技術指導であった。搾乳、ケチャップ製造、製パン、ソーセージ製
造などの食に関するものから、機械工場でのボイラー設置やゴム製造会社での指導と、
多岐にわたった。やがて解放後にはそのまま就労先に雇われる人もいたが、そうした人
たちは月給300円以上の破格の待遇で雇用された。

1670: 名無しさんAA:18/09/06 04:31
収容所内での多彩な文化活動、『第九』本邦初演も行なわれた。各地収容所では捕虜に
よるさまざまな活動が行われた。収容所当局から捕虜に強制されたことは、朝と晩に各
1回行われる点呼のみである。それ以外は捕虜に自由活動が許された。ある捕虜は日記
の中で、「収容所での最大の敵は退屈であった」と記している。欧州では戦争はいつ果
てるともなく続いていたので、日本の収容所に入れられようとも軍隊組織は変わらずに
存続していた。若い兵士が無為に一日を過ごすことは、精神的にも肉体的にも好ましく
ないと考えられたのであろう。収容所内では捕虜たちによる学習会、講演会、スポーツ
大会、演劇、コンサートなどが盛んに行われた。現在の徳島県・鳴門市郊外に設置され
た板東収容所は、ベートーベンの『交響曲第9番』(第九)本邦初演地として有名であ
るが、他の収容所と比べて捕虜に対する自由度が格段に大きく、遠足や海水浴も行われ
た。旧会津藩士の子孫だった松江豊寿収容所長の、敗者をいたわる精神の現われともい
われている。規律違反や捕虜同士のいざこざに起因する懲罰は各収容所で日常的に行わ
れたが、板東収容所は他の収容所に比べて驚くほど少なかった。そこにも 松江所長の
人道的な配慮が窺(うかが)われる。富田製薬株式会社所蔵の写真は、板東収容所近く
に捕虜たちと地元の大工30人の共同作業で建てられた富田酪農場(今日は「ドイツ牧舎
」と言われる)前で、解放間近の1919年12月頃に撮影された記念写真である。幼女を抱
くドイツ兵や、たばこを手にしてそれを見やるドイツ兵の姿には、捕虜の身を思わせる
ところは微塵(みじん)も感じられない。国際法を遵守した捕虜取り扱いが行われてい
た証しである、とみることができよう。又、久留米俘虜の人々は、久留米から博多また
湾に面した福岡市の柳橋や須崎の収容所などにも送られ、自ら労働を希望したために、
今津の元寇防塁の修復にもあたっている。この移送の際にドイツ兵たちはローレライを
歌いながら現場にむかったという。そのため今津の元寇防塁は、市内各地の元寇防塁の
中で最も良く保存されているのである。「支配と服従」「暴力と憎悪」を想起させるよ
うな捕虜収容所の中で「歓喜の歌」が歌われ、なおも異国人同士が隣人となり、文化や
技術をかよわせたことを示すこうした出来事は、テロや大量殺戮といった不安が蔓延す
る殺伐たる今の世界の中で、人間存在への希望をともす燈明のように思える。しかし、
海外からの防御にあった防塁の修復が、海外の異邦人に修理してもらった日本陸軍と言
うのは、ちょっと意外である。石橋正二郎は、その後将来発展するのは、自動車タイヤ
であることを見越し、九州大学のゴム研究の先覚者である教授の元を訪れて、タイヤの
国産化をめざす決意をする。そして1931年にブリジストンタイヤを創立している。

1671: 名無しさんAA:18/09/06 19:55
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 102

 ヘンリー・ルースは中国で生まれ育った改宗ユダヤ人で、ラジオ・映画ニュースにも
大きな影響力を持っていた。彼は、1930年代から、親中反日の一大キャンペーンを
張り、アメリカのアジア外交、特に対中国外交に大きな影響を及ぼした。これに対して
当時のドイツの有力誌『ヴェルト・ディーンスト』は1938年7月1日号でこう述べ
ている。「アメリカが、現在のような政策を追求する以上、戦争到来はほとんど不可避
である。第二次世界大戦を導き出すことに専念しているユダヤ秘密力は、アメリカが 
このような介入政策をとり出したことによって 一つの素晴らしい背面援護を得たので
ある。彼らはこれに勢いを得て 今後は従来の努力を倍増するだろう。アメリカは、果
たして この世界の文明の破壊の大雪崩に対して、最後の一突きを与えようした国々と
しての永久的汚名に甘んじるつもりであろうか。」この『ヴェルト・ディーンスト』誌
の警告はその後判を捺したように事態の推移により実証されることとなるのである。次
に、当時の各国の主要ジャーナリズムの反応を見てみよう。ルーズベルトの、あくなき
対独戦介入への煽動に対して、アメリカ国民も黙ってはいなかった。ニューヨーク州選
出の下院議員ハミルトン・フィッシュは、ルーズベルト政府に対して「大統領なり閣員
が今後少しでも外国攻撃の挑発的、ヒステリックな言辞を発したり、世界を焼きつくす
ような業火を燃え上がらせるような態度に出ることは許されない。」と警告を発してい
る。アメリカ国民の良識の反撃である。ハミルトン・フィッシュは、ハーバード大学を
卒業し、第一次世界大戦に従軍の後、1919年、米国下院議員に選出され1945年
まで12回にわたり選出されている(共和党員)。アメリカの孤立主義の指導的代表者
であり、ルーズベルト大統領の外交政策を鋭く批判した。1991年没した。また、「
アメリカ愛国主義者同盟」の別団体である「アメリカ・クリスチャン・ミリタンツ同盟
」もたまりかねて、ルーズベルトに対して次の如き電文を送っている。「われらクリス
チャン・ミリタンツの愛国者は、貴下が先日シカゴで話した言葉に関し、貴下がある種
の黒幕勢力に使嗾(しそう)されて、アメリカを外国との戦争へ追い込むことを辞さな
いだろうことを心から恐れるものである。『アメリカ愛国主義者同盟』は、貴下が後日
事態の認識において欠くところがあった という遁辞を設けないために、法律上許され
ている派遣委員を貴下の下に送り、彼らをして貴下に否定すべからざる証拠資料を示し
、世界における戦争が、単に大財閥の間で戦われる帝国主義戦争に他ならない。という
ふうに説明しようとしている。この大財閥とはシオニスト運動を代表するロスチャイル
ド家と国際主義の統率者であるウォーバーグ家とである。

1672: 名無しさんAA:18/09/06 19:55
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 103

 アメリカはこの真相を看破している。したがって貴下がこのユダヤ覇権争いのために
アメリカの罪のない壮丁を犠牲にし、アメリカの平和な生活を破壊に陥しめようと欲し
てもアメリカ自体は断然これを拒否するであろう。故に我々は『米国大戦従軍軍人団』
及びその他の憂国諸団体と協同して、我々市民を戦争に巻き込ませるような外国との、
どんな同盟に対しても抗議するものである。この国の、多年にわたる危機的産業破壊も
上述の同じ外部的権勢群によって招致されたものであるが、この現状からしても、先ず
第一に必要なのはあらゆる強健な男子が家庭にとどまって、自国を 共産主義から守る
ことである。」ここに述べられていることは、ルーズベルト政府の本質をあますところ
なく暴露している。ドイツのユダヤ人救済のため、アメリカを何が何でも対独戦に引き
ずり込まねばならぬとする ルーズベルトに勇敢に身を挺して抗議しており、また最後
の部分でルーズベルト政府が共産主義者の集まりであることにも抗議している。ニュー
ディーラーは事実上、初期のGHQを思うがままに牛耳っていた。マッカーサーもニュ
ーディーラーの指令に忠実に動いていたことは事実である。しかし、このニューディー
ラーの政策は、一言でいえば典型的な教条主義であった。マルクス主義の国家論に あ
まりにも忠実でありすぎたのであった。アメリカでもルーズベルト政府時代に階級闘争
の激化を計った事実もある通り、すべてをマルクス主義にのっとって施策していったの
であった。日本で先ず直ぐにやったことは、天皇制とそれに関係ある問題の変更であっ
た。東洋の一角に燦然と輝く日本の国体というものは、それら頭の悪いニューディーラ
ーにとっては打倒目標の最たるものと映ったのである。第一次大戦の結果、欧州の3つ
の王冠、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアは見事蹴落とすことに成功した。
残るは日本の国体だけである。と、少なくとも彼らは考えたのであった。そのために、
彼らは先ず天皇制に附随する問題の改革に力を注いだ。外濠から埋めていこうというわ
けだ。先ず、日本の国体と密接に関係のある教育における去勢作業から始めたのであっ
た。修身、地理、歴史の授業の廃止である。地理歴史という場合に問題にされたのは、
事実上、日本の皇国史観のみであった。又、修身とは他国には絶対見られない学科であ
った。これは君民共治という 人類の理想を具現化したものへ導くための基礎的な教育
である。ニューディーラーはいまだ、天皇制が君民共治の理想のただ一つの具現化され
たものである。ということを知らなかった。真に恥ずかしい話である。そのためにこの
修身科を先ず崩すことから始めたわけである。

1673: 名無しさんAA:18/09/06 19:56
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 104

 ついで地理、歴史である。地理の方は歴史と「地歴」というふうに一対に考えられて
いたので巻き添えをくったものだ。問題は歴史の方である。皇国史観は君民共治を軸と
して構築されたものである。ところが無知なニューディーラーは、マルクス主義の国家
論を教条主義的に考える以外思考力がなかった。国家破壊の最大障害として天皇制崩壊
を夢見ることしか頭にはなかったのだ。したがって天皇制を基調とする皇国史観を敵視
したのであった。戦後の教育改革において 一般論的な要素として最も重要なことは、
〇×式思考法を植え込んだことにあろう。この〇×式は別章で説明した通り、ルーズベ
ルトが戦時動員のために、採用手続の簡略化という名目で一般化させたものであった。
もともと、ユダヤ的思考法の二元論に他ならない。日本の教育界でも、これを戦後もっ
て来られた時驚いたものであった。何たる単純思考か。しかし精神的空白状態にあった
当時の日本では、知らず知らずの内に消化されていったのであった。決して「歓喜」さ
れて行わされたものではない。しかしこの方式は、何よりも 創造力を去勢するという
欠点をもっていると言わなければならない。問題の選択ができない。与えられたものの
中からしか答を選べない。問題に提起されたものより遥かにいい考えがあっても、それ
を答として選ぶことはできない。これでは創造力は奪われるであろう。さらに、依頼心
の強い人間をつくることにもなる。つまり、あまり努力をしないでも何分の一かは正解
の確率が潜んでいるわけであるから、思考力も弱り、逆にギャンブル性が強くなろう。
次に、ニューディーラーは階級闘争の激化につながる労働運動を盛り上げた。ここで、
是非とも強調しておかなくてはならないのは、憲法に実体法に属する団体交渉権を挿入
していることである。国家的意志統一の コーディネーターであるはずの一国の憲法に
労働運動の強化を促すような条項を入れるとは、非常識極まるものだ。この階級闘争の
激化は戦後の日本の経済発展に大きな犠牲となっている。しかし、これらはほんの氷山
の一角にすぎず、最も大きな支柱は、東京裁判と日本国憲法にある。1944年8月の
時点で、アメリカは戦後対独政策なるものの検討に入ったが、この時ルーズベルトは、
前述のように「我々はドイツに対して厳しく当たらなければならない」と述べている。
ルーズベルトの頭の中には、ドイツ人抹殺計画があった。ここには階級闘争史観もくそ
もない。恐ろしいジェノサイド(民族皆殺し)があるだけであったのだ。しかしドイツ
はいち早く麻薬おぼれの総統の自殺で難を逃れ、抵抗を止めて敗戦に及んだ。

1674: 名無しさんAA:18/09/06 20:00
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 105

 残った太平洋の対日戦略は、ルーズベルトの死後の意志である。彼の態度は詳しくは
分らないが、原爆使用も彼が決定したものであり、戦争中日本民族を抹殺せよと言って
いた点からしてほぼ同じものと推察できる。ただ幸いなことに、日本、ドイツとも、ル
ーズベルトの死後に降伏した。後任者はさすがにこのような考えはもっていなかったが
彼が信任した副大統領だったトルーマンもやはり同じ考えだったようだ。この点では、
アメリカ内部でもユダヤ人であるルーズベルトとその腰巾着モーゲンソーの考えに対し
てスチムソンは強力に反対した。ルーズベルトは戦後対独政策の検討のため閣僚委員会
を作ったが、そのメンバーはモーゲンソー、スチムソン、ハル、ホプキンスであった。
この中で非ユダヤ人のスチムソンは、モーゲンソーがドイツ国民全体に対しての、強い
憎しみの感情をもっている事を知っていた。そのようなことからアメリカが大量報復の
挙に出るのは断じて肯じないとした。ヘンリー・スチムソン陸軍長官は「マンハッタン
計画」の最高責任者でもあった。このモーゲンソー案に対しては、同じユダヤ系ジャー
ナリズムも、さすがに黙ってはいなかった。戦前、盛んに対独戦参加を鼓吹していた、
ルーズベルトを助けた『ニューヨーク・タイムズ』なども、このモーゲンソー案が将来
ユダヤ勢力にとって決して有利なものでないことをクールに悟っていたのである。なん
とかモーゲンソーの頭を冷やす必要を感じたのだ。そのほか、『ワシントン・ポスト』
『ロンドン・スペクテイター』 『マンチェスター・ガーディアン』なども同様であっ
た。さすがにルーズベルトもこれには参って、スチムソンに対し、ドイツを純粋の農業
国に回帰させるつもりはない。といわざるを得なくなった。スチムソンの努力によって
、アメリカの汚名を防いだのであった。もともとルーズベルトやモーゲンソーのユダヤ
勢力にとってはアメリカの名誉、国益などは眼中になかった。もしそのようなことを考
えているなら、世界戦争へ突入するわけがなかった。日本への原爆投下は、1944年
9月18日、フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相
が、米ニューヨーク州ハイドパークで会談した。原爆使用と将来の核管理についての申
し合わせであった。1972年に初めて公開された秘密協定で、恐るべきことは、まだ
ドイツが敗北していなかった時期に、「ドイツや日本への原爆使用」も決定されていた
。この秘密協定が結ばれた時期は、ノルマンディー上陸作戦からパリ解放の歓喜に沸く
時期で、ドイツの敗北は軍事的に決定的だったという説明がある。しかし、ドイツでは
その後もロンドンにV1ロケットを発射し、実際にドイツが降伏したのは、この7ヶ月
以上も後の事だった。

1675: 名無しさんAA:18/09/06 20:04
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 106

 またこの時、日本の敗北が軍事的に決定的だったことも、同様である。ルーズベルト
の私邸でチャーチルとの間で決定されていた。原爆使用の了承はその後のトルーマンの
最終決定を、より簡単にした。戦後しばしば日本への原爆投下については、これはソ連
の進出に対する牽制であるといった理由付けが行われている。しかし、これは全くの嘘
で、ただの核の敵国投下人体実験だったのである。それはその後に盛んにデーター取り
をした事でも証明される。アメリカから来た医者と言われた者らは、治療する医者では
なく軍部に属した実験医者達ばかりで、日本の看護婦はやけどで患部のガーゼを取れな
いと申し出に関わらず、泣き叫ぶ子供に治療と称してガーゼを剥し克明に写真を撮った
。そういう事にいぶかしく思った介護者達や日本の医者の一部から批判が出たが、時の
医療品や薬品がGHQの進駐軍の配給品だったので、立ち消えしそれは強行に行われた
。「週刊新潮』/連載「変見自在」 帝京大学教授 高山正之」では次の様に書かれる。
 アメリカのロサンゼルス空港で乗ったタクシーの運転手が、こっちが日本人と知って
「申し訳ないことをした」といきなり謝ってきた。彼は、ソ連崩壊のあとウクライナか
らやってきたユダヤ人で、彼らのコミュニティーには日本にまつわる言い伝えがあった
。「イスラエル12支族」のうち10支族が消えたと『旧約聖書』にあるが、その1つ
が日本人だったというのだ。なのに「ユダヤ人のオッペンハイマーは、その日本に落と
す原爆を作った」というのが謝罪の理由だった。そんなことがきっかけで、ウエストハ
リウッドにある彼と知り合い、彼の家にも遊びに行くようになる仲良しになった。この
運転手に聞きたかったのは、旧ソ連でのユダヤ人の生活だ。森繁の『屋根の上のヴァイ
オリン弾き』にあるように、ロシアはユダヤ人集落を襲い掠奪を欲しいままにする「ポ
グロム(ユダヤ人迫害)」の本場だ。彼も子供時代、キエフでそれを体験し、身内を殺
されていたが、「ロシア人よりグルジア人のスターリンの方がもっと陰険でひどかった
」と言う。「身分証明書は氏名、生年月日などが4行で書かれるが、我々のには5行目
があった。ユダヤ系と書かれていた」そしてある日、自宅から追い出され、他の「5行
目」の人々と一緒にカザフの街に送られた。カザフからは、逆にその地のタタール人が
ロシアの各地に送り出された。「タタール人を分散させて彼らの結束力を奪う。それで
も武装蜂起すれば、最初にやられるのが我々5行目たち。ソ連のためのロシア人の人間
の盾というわけだ。」と彼は言葉を吐き捨てた。

1676: 名無しさんAA:18/09/06 20:08
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 107

 この話は、スターリンの残忍さ、人でなしぶりが実によく分かる話だった。こんなに
も性質(たち)の悪い為政者は、スターリンが最後かと思ったら、そうでもなかった。
自衛隊がイラク南部のサマワに展開している。ここはシーア派のアラブ人の居住区だ。
欲深で、自衛隊が水道の敷設やらを、タダでやってやろうというのに、駐屯地の地代に
何百万ドルもよこせと言い張る。そんなアラブ人に混じって、ここに異民族のクルド人
が「何万人も住んでいる」という報道があった。クルドはイラク北部の山岳部に住む民
族である。宗派はスンニ派。サダム・フセインとは昔から仲が悪く、湾岸戦争の折には
サダムがクルドの街に毒ガスを降らせた事で有名になった。そのクルドが故郷を遠く離
れた場所、それがシーア派アラブ人地区である。そこにいる意味は一つ。クルド勢力の
分散とシーア派蜂起に備えた「人間の盾」だった。先日、瀋陽(シェンヤン)を訪ねた
。かつて昔、中国人を屈服させ辮髪(べんぱつ)を強いた満州民族の清が、最初に都に
し足掛かりとした街だ。そこで中国人の通訳が「今や満州族は、ほんの数万に減った。
北京の故宮に書かれている満州文字を読める者は、今や十人といない。」と笑った。こ
の満州族の激減の理由を聞くと「いや新疆ウイグルには何十万かいる」と答える。ウイ
グルは中国の西の端で、満州からは3000キロも離れている土地だ。しかもそこには
イスラムを信仰するソグド系の民の国になる。彼らは中国の支配を好まず、独立を叫ん
で北京政府と何度も衝突してきた。そこに3000キロ彼方から満州族が来た。好きで
移住したわけではない。ウイグルが決起したとき最初に血祭りに上げられる役割を北京
政府が担わせたのである。7月5日付の朝日新聞に「チベット族、警察を襲撃」という
ベタ記事があった。「中国東北部の吉林省長春でチベット族数十人が警察を襲い、警察
側は300人の警官が応戦、1人を逮捕した。長春の市街地で警官がチベット族の所持
品検査を行い、ナイフを没収しようとして争いとなった」というのが、事件のあらまし
だった。吉林省は瀋陽のある遼寧省の隣、脱北者が逃げ込む朝鮮族の国だ。そこから、
チベットまでは遥かに新疆ウイグルより遠い。ここにチベット族がいる理由もまたウイ
グルにいる満州族と同じだろう。スターリンから、サダム・フセインに引き継がれたと
言う「民族の分散淘汰」という非道な手法は、中国の胡錦濤(こきんとう)が引き継い
でいた。彼らは、そう時間をかけずにチベット人も満州人もその文化ごと今世紀かけず
滅ぼしてしまうだろう。こんな国が国連の「安保理常任理事国」であることに世界は呆
(あき)れている。早々にそのポストを去るがいい。後を心配する事はない。常任理事
国にもっと相応しい「日本」という国があるのだから。とも思う。

1677: 名無しさんAA:18/09/06 20:10
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 108

 かつて、ヴァージニア・カウルズは『大マールボロ公爵伝』に次のように書いている
。「英国は戦争により世界の支配勢力に生まれ変わった。イングランド銀行の信用制度
のおかげで、無理をせずに戦争の重荷に耐えることができたからである。」と、ハクズ
ブルク家から分かれてこのロシアの地に来た事から始まるニコライ1世の治世は、専ら
強権的な専制政治に貫かれ、1830年と1848年に起こったポーランド立憲王国の、自治権
拡大運動を鎮圧した。この結果、それまで総督が統治していたポーランドは、1830年の
武装蜂起鎮圧後はロシアの直轄領となり、自治権も大きく制限された。また1848年には
「ヨーロッパの憲兵」と称してハンガリーの独立運動を鎮圧した。対外的には汎スラヴ
主義の土台を築き上げ、南下政策を推進した。バルカン半島では、ギリシャやセルビア
の独立運動を支援した。極東方面ではアヘン戦争の結果、イギリスを中心とした欧米列
強が東アジアに本格的な進出を開始したことを重視し、プチャーチンを遣日全権使節と
して日本へ派遣し、1855年に日露和親条約を締結した。西アジア方面では、1828年に、
ロシア・イラン戦争でカージャール朝ペルシアに勝利し、トルコマンチャーイ条約を受
け入れさせ、アルメニアを併合することに成功した。エジプト事件に際してはオスマン
帝国を終始支援し、ウンキャル・スケレッシ条約を締結してボスポラス・ダーダネルス
両海峡の独占航行権を一時獲得するなど、南下政策を進めていったが、イギリスやプロ
イセン・オーストリアの干渉を受けて挫折し、オスマン帝国との間にクリミア戦争を起
こした。これは、ロシア皇帝ニコライの先祖のニコライ1世はのやり方だった。ルーシ
の王「全ロシアのインペラートル」の称号はピョートル1世大帝のもとで導入された。
大北方戦争に勝利して1721年9月に、ニスタット条約が締結されると元老院とシノドは
ピョートル1世に対して「通常、高貴な家柄の出であるローマの元老院が、末永く家名
が存続することを記憶に留めるよう法規に乗っ取って公衆の目前で捧げられるインペラ
トルの称号を用いていたのと同じように公式声明を出してインペラトルの称号を贈呈す
る」ことを決めた。これは小さかったロシア公国が巨大ロシアに変わった瞬間だった。
ピョートル1世は、それまでの中世以来の慣例を廃止して、帝位は男子の直系子孫に継
承されるが、皇帝の意思によりそれに相応しい人物は後継者として指名されることを許
されるという旨の帝位継承に関する布告を発行した。1797年にパーヴェル1世は新たな
帝位継承に関する法律を作成した。これによりロシア帝位継承者は基本的には長子であ
ることが原則とされ、それに続く者はポーランドとフィンランドとの関係が結ばれるこ
ととなった。

1678: 名無しさんAA:18/09/06 20:19
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 109

 この事は大きな事だった。これまでの因習では、1547年にイヴァン4世がツァーリの
称号を帯びて以後、1721年にピョートル1世がロシア帝国建国を宣言するまで、皇帝は
用いられていた。ロシア国家の公称で公国部族の長が皇帝ツァーリを名乗りそれを連合
や同盟を行う各小公国が信任して皇帝が生まれて居た。則ち家長制度で継続する事はな
かったのである。この部族の中の実力を持つ長がツァーリ足る称号を信任されて貰って
公言する事が出来ると言う、ある意味アマゾンやアフリカの原住民のシステムそのまま
だったのだ。しかし法を作り帝位を長子相続とした上で、長子たる帝位継承者が死去な
いし拒絶した場合に備えて、継承できるように、以下に続く縁故者がその代理人として
の役割を担わされた。直系で帝位継承者がいない場合には傍系の者に継承順位が移るこ
ととなっている。直系傍系を含む家系内においては男性の方が女性よりも優先とされ、
女性を差し置く形で傍系男子の者が要請されることとなった。皇帝に即位する際に求め
られていたことは、わずかに正しい信仰の告白のみであった。君臨する皇帝及び継承者
が16歳に達すると、例え統治能力が欠けていたとしても、自身の統治権が行使される
ことになっている。ただし皇帝に、統治して早世した場合を除く何らかの事態が生じた
際には、生存しているその父母が皇帝不在時における継承者の最有力候補の地位に納ま
ることとなっている。こうして日本の朝廷や王家の様な帝位継承権が生まれた。これは
ひとえにロマノフ王家の財宝が蓄えられる事を意味し、又その財力の持つ信用が成せる
権力だった。ロシア帝国の統治者はみな、1613年に即位したミハイル・ロマノフに始ま
るロマノフ家の血統に属している。もっとも、1761年以降の皇統はピョートル1世の娘
アンナとシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒの子
孫に移り、男系ではオルデンブルク家の分枝にあたるホルシュタイン=ゴットルプ家に
属していることから、2人の息子であるピョートル3世以降は厳密にはホルシュタイン
=ゴットルプ=ロマノフ家の血統に属している。つまりこれによって、スラブ高原から
のロマノフ家とフィンランド湾沿岸部のフィヨードル家やポーランド・リトアニア共和
国、スウェーデンおよびデンマークなどの戦争で持ちえたホルシュタイン王家とも統合
された王位を持つに至ったのである。日本の戦国時代の中で政略結婚で地域を治めたよ
うに、武力よりは血統がもつ王位や住民からの信用が、これ以降ロシアを守る事になっ
た。



1679: 名無しさんAA:18/09/06 20:19
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 110

 ニコライ1世の治世は専ら強権的な専制政治に貫かれ、1830年と1848年におこったポ
ーランド立憲王国の自治権拡大運動を鎮圧した。この結果、それまで総督が統治してい
たポーランドは1830年の武装蜂起鎮圧後はロシアの直轄領となり、自治権も大きく制限
された。また1848年には「ヨーロッパの憲兵」と称してハンガリーの独立運動を鎮圧し
た。これは1825年、長兄アレクサンドル1世の急死と次兄コンスタンティン大公の皇位
継承権放棄によって即位した皇帝だった。アレクサンドル1世の在位中から専制的な言
動で知られていたため、即位時にデカブリストの乱(自由主義を支持する将校達による
クーデター未遂)が起こった。この計画を事前に察知していたアレクサンドル・ベンケ
ンドルフ伯爵を登用、1826年に「皇帝官房第三課」を創設させた。ベンケンドルフを長
とする秘密警察はプーシキン、レールモントフ、ベリンスキー、ゲルツェンらを流刑に
した。実は欧州社会は征服王朝の焼き直しばかりやっていた。フランスの歴代王朝には
このロシアの様な流れと同じであった。@メロヴィング朝(フランスの前身・フランク
王国を作った王朝)→Aカロリング朝(メロヴィング朝の王様宮宰で世話係が蹴落とし
王朝)→Bカペー朝(ベルギーにあたる地域の豪族)→Cヴァロア朝(百年戦争〜ユグ
ノー戦争をやってた頃の王朝)→Dブルボン朝(ユグノー戦争以降の王朝。→フランス
革命で王朝廃位→Eオルレアン朝(ブルボン家の支流。フランス革命後、王政復古でル
イ・フィリップという人が王様になった)と言う流れがある。このフランス王朝の3つ
目を創始した人がユーグ・カペーは、それ以前カロリング家の批判があって出来た王家
だった。フランク族のカロリング家は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、宮宰
(宰相)を輩出してきた家系であった。諸侯の宮廷職の首位を占める職で、もともとは
、王家や諸侯の家政機関の管理者であったピピンが勇ましく王朝が乗っ取られたのだ。
ピピン3世の子カール大帝の時代には、イベリア半島とブリテン島を除く今日の西欧州
のほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに
東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は、
現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フラン
ス・ドイツのもととなったが、この時代は北からノルマン人・南からムスリム・東から
マジャール人が侵入し、これにカロリング家の君主はうまく対応することが出来ず、逆
に辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めるとともに影響力も強めた。

1680: 名無しさんAA:18/09/06 22:26
 888年には西フランク王位がパリ伯ウードに移り、一時的にではあるがカロリング家
の血統から外れた。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め
、のちにはカロリング家のシャルル3世を後継者として認めざるをえなかったが、ウー
ドの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位は
これ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて 987年にはユーグ・カペ
ーの登位とともにカペー朝が創始され、のちのフランス王国へと変貌を遂げ始めた。こ
の時フランスと言う国家認識が出来上がった。この後の王朝はヴァロア家もブルボン家
も、元々はカペー家の支流でした。歴史上751年から987年まで、フランク王国やそれが
分裂した後の東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の王を輩出したが 987
年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅したとされる。ところがフランス革命で、
ブルボン朝は終わり、ルイ16世の子供たちは子孫を残さずに亡くなったが、ブルボン家
ひいてはフランス王家は、ルイ・フィリップの子女には他国の王家に嫁いで子供を残し
た。厳密に言えば今もまだブルボン朝、そしてユーグ・カペーの血は続いている。現在
のスペイン王室であるボルボン家はルイ14世の孫の血筋で、これまたユーグの末裔と
いうことになる。ちなみにユーグ・カペーは多くの子孫を残した。フランス革命とナポ
レオンの時期を除き、1848年までフランスを支配したカペー朝・ヴァロワ朝・ブルボン
朝・7月王政の各王は、皆がカペーの子孫である。1204年の第4回十字軍後に建国され
たラテン帝国のクルトネー家、1910年まで続いたポルトガル王家、14世紀にナポリ王国
・ハンガリー王国・ポーランドのアンジュー=シチリア家も、カペー家の系統だった。
現在のスペイン・ルクセンブルクの各王室もユーグ・カペーの傍系の子孫である。この
カペー家の支流の、ブルボン家の支流は、結局ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ
家=ハクスブルク家の血統にもつながっていたのである。もともと弱小勢力のカペー家
を王にしておけば互い牽制してかえって安定するだろうという諸侯たちの読みもあり、
出来た弱い王権でいつでも自分たちの意のままになるだろうという思惑の王朝でだった
あり、その後フランス革命でブルボン家は王位を追われてフランスを去ったが、スペイ
ン王室は分家にあたる。このスペインが更に内乱にも陥った。第一次世界大戦でハクス
ブルク家の最後の皇帝カールはマディラ島に軟禁生活に陥ったが「私の帝冠は換金でき
るものではないと、皆さんにお伝えください。」と返事を送った先は英国領事館だった
。つまりイングランド銀行が資産を預かっていたのだった。「善良帝カール」のハクス
ブルク家の資産と皇位をまんまと奪ったのである。カールは妻のツィタには「これから
はスペイン国王アルフォンソ13世を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると
約束してくれた。」と遺言して逝った。

1681: 名無しさんAA:18/09/06 22:27
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 112

 英国では、チャールズ2世の後を嗣いで即位したジェームズ2世は、清教徒革命の為
フランスに亡命していた。この時カトリックに改宗しており、カトリック教徒を重用し
て英国を治めていた。しかしそれに反対していたプロテスタントの大臣を次々に罷免し
てしまい、ほとんどの議員がプロテスタントである中で敵対した。カトリックの支配に
対して敵意を持つイングランド議会と国王との対立が深まりジェームズ2世は、それま
でなかった常備軍を設置するに及んで決定的になった。王には男子後継者が無く、そこ
で議会は、ジェームズ2世の長女メアリーが後を継ぐことを期待して動いていた。メア
リーは母のアン・ハイドがプロテスタントであったためにプロテスタントとして育てら
れたばかりか、プロテスタント国オランダの総督であるオラニエ公ウィレム3世に嫁い
でいた。しかし、 1688年6月10日、ジェームズ2世と王妃メアリー・モデナ との間に
、待望の王子ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート「ジェームズ老僭王
」が生まれた。、ジェームズ2世はこの王子によってカトリックの支配を続けさせる事
を願った。これにより、議会はついにジェームズ2世との対決を決意し、ウィレム3世
・メアリー夫妻にイングランドへの上陸を要請したのである。また乞われたウィレム3
世側も、英国を反フランス・親オランダの側に取り込む目的があり、フランス王のルイ
14世はスペイン領ネーデルラントの領有を狙いネーデルラント継承戦争を起こしてい
た。その為次にネーデルラント領有を妨害したオランダへの報復を行い(オランダ侵略
戦争)をして、終戦後もルクセンブルクのストラスブールを占領してドイツ(神聖ロー
マ帝国)のプファルツ選帝侯領の継承権を主張し、欧州侵略の野望を露わにしていた。
ウィレム3世はフランスを危険視しており、フランス包囲網を築くためには親フランス
のイギリスでは具合が悪かったのである。また、ジェームズ2世の治世に不満を抱いた
イングランドの一部の政治家が1686年からオランダへ渡海、ウィレム3世と接触して、
クーデターの密議を重ねて着々と準備していた。10月ウィレム3世はオランダにメアリ
ーを残しオランダ軍2万を率いて出港したが、嵐のため一旦引き返した。11月に再度の
出港しイングランド西部のデヴォン海岸に上陸した。11月17日に宣言文を配布して国民
に広く主張を訴えた。これらの事実を知ったジェーム2世は議会に譲歩を示したが、既
に手遅れだった。カトリックの上官の司令にプロテスタントの兵は戦おうとしなかった
。戦わずしてオランダ軍は進軍し、12月オランダ軍がロンドンに迫ると、王は亡命を
謀る。まず王妃と王子をフランスに亡命させ、翌日に自らも亡命に走ったが、ケントで
捕らえられた。

1682: 名無しさんAA:18/09/06 22:27
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 113

 この上陸後は幾つかの抵抗はあったが、側近である近衛騎兵隊長以下、暫定政権の指
示を受け取り交戦を停止、陸海軍は両方共オランダ軍への抵抗を止めた。こうしてウィ
レム3世はオランダ統領を兼ねたまま、ウィリアム3世としてイングランド王にも即位
することになった。こうして銀行協会も、カトリックの権威が及ばない権力から抜け出
したプロテスタントの英国を、安住の地としてベルギー人やオランダ商人が私財の保護
を考えた。この戦争は、「名誉革命」又は「偉大なる革命」とも呼ばれる。この革命に
より以降は、イギリスのカトリックの再確立の可能性が完全に潰され、イングランド国
教会の国教化が確定した。それだけでなく、権利の章典により国王の権限が制限され、
イギリスにおける議会政治の基礎が築かれたからである。ただし、イギリスのカトリッ
ク教徒にとっては以後数世紀に渡る受難の始まりであった。イギリスの国王およびその
伴侶がカトリック教徒であることは現在でも禁止されている。なお、オランダ主導によ
るイギリス侵略という側面を強調する歴史解釈もあり、現在では、名誉革命は、内乱と
外国の侵略が併存した「革命」であり、イギリス人の誇り及び介入したオランダ政府の
政治的思惑などから、外国の介入の要素が意図的に無視されてきた歴史、とされている
。しかし、この改革でこれまで、オランダでの秘密結社として、利子付きの融通資本、
つまりギルドやマイスターなどの職人協会が 持ち寄りで融資や投資して来た社会が、
公けに銀行として設立が可能になった。こうして1600年に世界初の株式会社であるイギ
リス東インド会社がイギリスで設立され、後にインドで植民地経営を行い、アヘン戦争
の引き金をひいた。だがそれはこのプロテスタントの利子の契約や利潤の譲渡が可能に
なったからだった。しかし、金融史を紐解くと、「近代的な会社」という意味では、英
国に遅れ2年後に設立されたオランダ東インド会社のほうがより重要な行動にでた。な
ぜなら、当時の株式投資の考え方は、一航海ごとに出資を募るというプロジェクト的な
動きをしていて、イギリス東インド会社も例外ではなかった。つまり会社とは言え銀行
の様な仲介者だったのだ。その為安全帰港の保証とする保険も発達した。しかし、オラ
ンダ東インド会社は、長期的なスパンで確実に利益を得るために、ジャワを手はじめに
いくつかの島にコショウの貿易拠点を作ろうとした。そこで大きく儲けるためには利益
の回収に時間がかかる理由で、今後のすべての航海を「1事業」とみなし、出資を募っ
たのだ。


1683: 名無しさんAA:18/09/06 22:28
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 114

 しかし、こうした「一航海型」でなく「一事業型」の公募は利潤も少なく、又即興的
利益もないし信用も無かった。なにぶん何往復もしないと、元が取れなかったからだ。
ここに資金繰りの苦悩があった。ギルドの船商人はここで大きなスポンサー探しに奔走
する事になるが、以外にも簡単に見つかった。ルーシ大公イヴァン4世である。イワン
大公はロシア正教会の著名なモスクワ大聖堂(生神女就寝大聖堂)において、ツァーリ
として正式に戴冠を行い、外交文書においてもツァーリの称号を用いて各国君主、教皇
などと外交交渉を行った。ただし、この段階では「全ルーシのツァーリにして大公」で
あった。1721年、大北方戦争に勝利して祝賀ムードが高まる中、ロマノフ朝のツァーリ
であったピョートル1世は元老院でロマノフ朝のツァーリとして「祖国の父」「大帝」
といった称号が認められた。リューリク朝は1598年1月、フョードル1世の死で断絶した
。以後、ロシアでは皇位をめぐる動乱期に入り、その中で16世紀末のフョードル・ニキ
ーチチ・ロマノフの代にロマノフ家が台頭して動乱期を制し、その息子であるミハイル
・フョードロヴィチ・ロマノフが1613年に推戴されて初代ツァーリに即位した。ロマノ
フ家はリューリク朝と直接の血縁関係は無いが、イヴァン4世の第1夫人がロマノフ家
出身であるという縁戚である。こうして、ここに三百年続くロマノフ朝が始まったのだ
が、このイヴァン4世やロマノフ家が、この1事業制の株式会社の株を購入投資をして
くれたのである。海に面しないロシアにとって海の商人だったギルド商人の陳情は聞か
ない訳には行かなかった。又北海のバイキングに対抗するにも欧州側の商人は貴重だっ
た。ロシアのピュートル大帝はそうした利潤よりは領土の拡張や治安の方が大事だった
が、オランダ人交易はロシアに大きな恵みをもたらした。ロマノフの財宝はロマノフ家
が持っていた権威の象徴だったが、サンクトペテルブルクの建設や大陸横断鉄道の資金
などは、実はこの時投資していた繋がりが与えた恵みだった。ロシア皇帝の権力は絶大
なものと思われがちだが、絶大なものとなったのはエカチェリーナ2世の時代であり、
それまで皇位継承は貴族や軍による宮廷革命によって左右された。またエカチェリーナ
2世までの歴代皇帝によるロシア経済の発展と宮廷文化の成熟、近代化が皇帝の威信を
高める一因となった。こうしてロシアの近代化はピョートル大帝期の時代に推進される
に及んだ。


1684: 名無しさんAA:18/09/06 22:28
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 115

 ネーデルラント(オランダ)のウィレム3世が名誉革命でイングランド王も兼任する
ことになり、イングランド王としてはウィリアム3世だったが、この3世の数字が同じ
なのは全くの偶然である。イギリスオラニエ公ウィレム3世を、オランダ語読みの”オ
ラニエ公”を英語読みにすると”オレンジ公”となり、オランダ語風の”ウィレム”は
英語風にすると”ウィリアム”ですが、”3世”が付いているのと付いてないのでは別
人となる。オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)は、オランダ総督のウィレム
1世(1533年4月24日 - 1584年7月10日)のことで ウィリアム三世(1650年11月14日 -
1702年3月8日)はその曾孫です。ちなみに偶然というのは、オラニエ公のウィレム三世
とイングランド王の三世が同じになった事で、オラニエ公(=オランダ総督を世襲)で
ウィレムを名乗った三番目とイングランド王でウィリアムと名乗った三番目、が一致し
た偶然である。たとえば、神聖ローマ皇帝のフランツ2世がオーストリア皇帝となると
フランツ1世となるように、同一人物でも領土主権のタイトルによって何世か変わりま
す。逆に言うと、何世かというのは非常に重要です。日本でも「壱岐の守」や「土佐の
守」などには何代目かを付けていたが、南北朝時代頃には既に無くなっていた。このウ
イリアム三世(オラニエ公ウイレム在位1689〜1702)はオランダ人であったが、議会と
協調し政党政治が成立して行く。当初こそ議会を二分していたホイッグ・トーリー両党
から等しく大臣を取り、連立内閣を組織するようにしていたが。それでは政争が絶えず
晩年ホイッグ一色にしてみた(1694年)。これから議会の多数党が内閣を作る政党政治
が生じた。ウイリアム三世のイギリスは、ファルツ継承戦争(1688〜1697)に参加し、
アン女王(在位1702〜1714)の時スペイン継承戦争(1701〜1713)に参加してフランス
の勢力を抑え様としたが、大陸の戦闘には参加せず植民地でフランスと戦いフランスか
らハドソン湾地域・アカディァ・ニューファウンドランドを得て、スペインからはジブ
ラルタルとミノルカ島を得た形になった。アカディァ・ニューファウンドランドは当時
清教徒(ピューリタン)のアメリカ上陸地となって街が出来たと言われる。曾祖父に当
たるネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)独立の英雄ウィレム1世(沈黙公)
に始まるオラニエ=ナッサウ家は、南フランスのオラニエ公は、オランダ、ドイツ中西
部のナッサウに領地を持ち、オランダでも最有力の貴族で、ウィレム1世以来共和国の
主要州で総督(統領ともいう)を務めていた家柄だった。

1685: 名無しさんAA:18/09/06 22:29
< 小日本とアローンの志士 >  よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 116

 ウィレム1世は、オラニエ公として八十年戦争勃発時の中心人物とされる。オランダ
がまだネーデルラント連邦共和国の頃の、独立国家の事実上の初代君主とされる。オラ
ニエ公は代々ブルゴーニュ公に仕えており、ルネ・ド・シャロンもブルゴーニュ公であ
りネーデルラント17州の君主であった神聖ローマ皇帝カール5世に従ってイタリア戦
争の最中に命を落とした。こうして、ドイツの小領主の嫡男から一転して大貴族の当主
となったウィレムは、父の元を離れてネーデルラントへ送られ、カール5世やその妹で
あるネーデルラント総督マリアの監督の下で大貴族にふさわしい教育を受ける。一世が
治めていたホラント州、ゼーラント州他の総督では、早くから海岸の河口の船の街だっ
た。ウィレム1世は「沈黙公」として知られているが、これは反乱直前の時期の旗幟を
鮮明にしない態度を揶揄したもので、実際には誰にでも愛想がよく非常におしゃべりで
あった。1533年、ウィレムはドイツ中西部に位置するナッサウのディレンブルクで、ナ
ッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム1世(英語版)とその妻ユリアーナ・ツー・シ
ュトルベルクの間の長男として生まれた。1544年、11歳の時に従兄のルネ・ド・シャ
ロンが戦死したが、ウィレムはその相続人に指名されていた。そのため、ルネが父ナッ
サウ=ブレダ伯ヘンドリック3世から相続していたネーデルラントの所領と、母方の叔
父フィリベール・ド・シャロンから相続していた南フランスのオランジュ(オランダ語
でオラニエ)公国をともに相続して、オラニエ公ウィレム1世となった。以後ウィレム
の家系はオラニエ=ナッサウ家と呼ばれる。ナッサウの所領は父から弟ヨハン6世に相
続された。1566年、フランドルで反カトリック暴動が発生し、その反乱はネーデルラン
ト各地へと広まり、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した。
フェリペ2世は事態の収拾を図るため、アルバ公を1万ほどの軍勢とともに派遣した。
ネーデルラント貴族達はこの暴動の責任を問われ、エフモント伯ラモラール、ホールン
伯フィリップなどなど有力貴族20人余りが処刑されるに至った。この際、オラニエ公
ウィレムはドイツに逃れており無事だったが、領地、財産の多くが没収された。1568年
4月、ドイツに逃れていたウィレムは、軍を率いてオランダ北部と中部から一斉に進攻
、5月23日のヘイリヘルレーの戦いに勝利したものの、結局は失敗に終わった。


1686: 名無しさんAA:18/09/06 22:29
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 117

 軍勢を整えて再起を図ったウィレムは、つぎは弟のローデウェイク(ルートヴィヒ)
やアドルフらとともにスペイン軍に戦いを挑む。その頃はスペインは制海権を持つ程に
つよく、ネーデルランドを植民地化するほど強かったのである。この為に敗北し、今度
はフランスに逃れ、ユグノーに合流した。そして「海乞食(ワーテルヘーゼン)」と呼
ばれる海賊軍団(ゼーゴイセン)を組織し、低地地方の沿岸を無差別に略奪を繰り返し
ながら、徐々に勢力を回復した。このユグノーがかなり強く、1572年4月1日海乞食達は
ブリーレの占拠に成功し、やがて港湾都市を少しずつ制圧していった。同年7月ホラン
ト州は反乱側に転じ、ウィレムを州総督に迎えることとした。ホラント・ゼーラント2
州に海乞食が足場を整えると、改革派が続々と流入し、徐々に主導権を握るようになっ
た。こうして1572年にはホラント州、ゼーラント州の総督となり、反スペイン勢力の中
で中心となった。これを受けて、スペインの迫害を受けていたプロテスタントの多くが
これらの州へ流入し味方するようになった。1573年2月にはホラント州でカトリックの
礼拝が禁じられ、ウィレムは、1577年にユトレヒト州、1578年にはアムステルダムを自
らの陣営に加え、1579年にユトレヒト同盟を結成した。つまり、このプロテスタントの
教徒達はユグノーと共にあったのだ。こうして反スペイン陣営をまとめあげた王となり
。間もなくアントウェルペンなどの主要都市も合流し、1580年には残りの北部4州も合
流した。一方で、ユトレヒト同盟の成立とほぼ同時期に、ネーデルラント南部の諸州は
アラス同盟を結成しフェリペ2世に対しては協調的な姿勢だったが、北部諸州は連邦議
会を作り、フェリペ2世の統治権を否定していた。教科書的な記述ではこれを「オラン
ダ独立宣言」と表現する場合が多いが、実際には「独立宣言」そのものは存在しない。
また、「独立宣言」によりネーデルラント連邦「共和国」が成立したとされるが、北部
諸州はその前年にフランス国王アンリ3世の弟アンジュー公フランソワを新たな君主と
して招き入れる決定をしている。つまり、共和政への強い志向があったわけではない。
この時君主就任を要請したアンジュー公はカトリック教徒であって、この戦争を単なる
宗教戦争として捉えることもできない。スペインとの戦いが続く中で、ウィレムはデル
フトの彼の居館プリンセンホフで、フェリペ2世を信奉するフランス人のカトリック教
徒バルタザール・ジェラールによって暗殺された。昼食を取るために書斎から1階へ下
りようとしたウィレムに、暗殺者から3発の凶弾を浴びせられと言う。次男マウリッツ
が後継者として1585年にホラント州、ゼーラント州の総督に就任する。その後、1597年
までに再び北部州をまとめ上げ、対スペイン戦争を継続していった。

1687: 名無しさんAA:18/09/06 22:30
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 118 

 1672年、フランス軍がオランダに侵攻し、オランダ侵略戦争が開始される。オランダ
の大半が占領され、アムステルダムも占領の危機に瀕すると、民衆がウィレム3世の総
督就任と共和政府の打倒を叫び、ウィレム3世が総督に就任した。デ・ウィットとその
兄コルネリス・デ・ウィットが暴徒によって殺害され、無総督時代が終焉した。それま
でオランダのブルジョワ政治家たちに排斥されて総督の世襲を阻まれていたウィレム3
世だったが、就任後の1673年にオーストリアやスペインと同盟を結んで逆にフランスを
包囲する形勢を作り、フランス軍への徹底抗戦を貫き、オランダ国内で抵抗を続けた。
その後、オランダを出てオーストリアの将軍ライモンド・モンテクッコリとドイツで、
合流しフランス軍の補給基地ボンを落とし、同年のうちにフランス軍を撤退させたのだ
。これ以降、ウィレム3世はルイ14世の仇敵となって戦った。戦争はスペイン領ネー
デルラントへと移り、ウィレム3世は同盟軍を率いてフランスの将軍コンデ公ルイ2世
とリュクサンブール公フランソワ・アンリ・ド・モンモランシーとネーデルラントで戦
い、コンデとリュクサンブールとの戦いではしばしば敗北を重ねた。(スネッフの戦い
、カッセルの戦い、サン=ドニの戦い)その間、ネーデルラントの都市を奪われたりし
ているが、戦略上他国と結んだオランダが有利であり、1678年に締結されたナイメーヘ
ンの和約でオランダは領土を保全、ウィレム3世は一躍プロテスタントの英雄となった
。一方フランスと組んで戦ったイングランドは、海軍提督ミヒール・デ・ロイテルの活
躍でオランダ上陸を阻止していた。1674年にイングランドと和睦して第三次英蘭戦争を
終わらせ、1677年に駐蘭大使となっていたテンプルとチャールズ2世の側近のダンビー
伯トマス・オズボーンの周旋で、ロンドンでチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズの
娘メアリーと結婚した。ジェームズは母方の叔父であり、妻とは従兄妹の関係になる。
メアリーは背が高く大柄で、背の低いウィレム3世とは不釣り合いの夫婦であった。又
夫婦仲も良くなく、ウィレム3世には別にエリザベス・ヴィリアーズという愛人があり
(後にオークニー伯ジョージ・ダグラス=ハミルトンと結婚)、同性愛的傾向もあった
が、メアリーに敬意を払うことだけは忘れなかった。とこういう歴史を歩んだ英国だっ
たが、この時ユグノー教団が考えたことは財産の保全だった。彼らはスペイン人の強奪
に会わないため資産を隠すために銀行や協会を作った。リスク分散の考え方で投資を選
び。投資した商人が生き残る事で、自分が無一文では又始められる仕組みを築いたのだ


1688: 名無しさんAA:18/09/06 22:44
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 119 

 会社の起源とされるものは各国で発見されているが、フランスには「バザクル水車」
という会社があり、なんと今も続いている。西暦850年頃に小麦粉をひく水車小屋が
造られ、1150年に会社の権利を小口化して売っていたとされる。株式は英語で( Share
:シェア)と言いますが、水車が生み出す利益を、みんなでわけあう仕組みは、江戸期
の田舎の水車にも導入された。つまり、水車小屋を皆んなで作るのだが、一定の寄付で
は上手く行かないし、使い方も大農主と小作農では時間も摩耗も違う。又そのままでも
保守点検や修理と新規の建て替えは起こる。そこで少し余る程の料金で運用し積立てと
量による決済をして共用としたのである。現代の株式会社が日本では「福祉の増進」を
謳っているので今と根本的に同じですよね。又日本で言えば、西暦 578年に聖徳太子が
百済から宮大工を招いたのが起源とされる社寺建築の「金剛組」は、いまや1400年以上
の伝統を持ち、日本どころか「世界最古の法人」と言われている。もっと古いものが、
見つかる可能性もあるのだが、日本の歴史でもこうした、寄付や慈善事業体としての、
会や組合の運用が起こっていた。こうした運用最古の共同体が残っているのは、共生の
思想の中には、宗教と違って同じ共済集団となって、技術や財産を残そうと言う意志が
あった事で起こった事だった。ただそれでも、オランダ東インド会社のような永続的な
投資を前提とした会社は、他国にはなかったとされている。投資先が「10年20年ずっー
と」と言うスパンが長引いていき、今日の株式の永続性が生まれ、「会社は継続するも
のだ。」という近代的株式会社の概念までこの時初めてオランダで誕生した。日本の利
潤を子孫に残す。と言う考えと違い、残す為に利潤を配布する。と言う考え方のようだ
。そもそも東インド会社は、肉を腐らせないためコショウが重宝され、胡椒一俵は城が
買える、船が買える。とされる高級品だった時代である。この高価なコショウの輸入を
求めて航海に出た。と言われる。コショウ貿易は当時、肉よりもずっと値段が高かった
。つまり、コショウを買えるほどの富裕層は、もともと腐りかけの肉を食べる必要がな
かった。コショウは肉の保存目的ではなく、風味つけの「よりおいしく肉を食べたい」
という欲望を持った諸侯の料理人に、グルメを目的に流通していた。つまり、グルメへ
の欲を満たすために経済が動いていた。日本でいう「食の贅沢は国を潰す。」と言う諺
を国王はわざわざ行っていたのだった。そして商人もわざわざ危険な航海をして、東イ
ンドまでコショウを取りにいかせ、航海が成功する度に莫大な利益が生む商売を始めた
。この為投資と言う金儲けを目的に事業に出資する人が出てきた。それが株式会社の始
まりだが、それが又ロシアの経済を助けた。最初の大口投資家がロシア皇帝だったから

1689: 名無しさんAA:18/09/06 23:02
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 119 
 会社の起源とされるものは各国で発見されているが、フランスには「バザクル水車」
という会社があり、なんと今も続いている。西暦850年頃に小麦粉をひく水車小屋が
造られ、1150年に会社の権利を小口化して売っていたとされる。株式は英語で( Share
:シェア)と言いますが、水車が生み出す利益を、みんなでわけあう仕組みは、江戸期
の田舎の水車にも導入された。つまり、水車小屋を皆んなで作るのだが、一定の寄付で
は上手く行かないし、使い方も大農主と小作農では時間も摩耗も違う。又そのままでも
保守点検や修理と新規の建て替えは起こる。そこで少し余る程の料金で運用し積立てと
量による決済をして共用としたのである。現代の株式会社が日本では「福祉の増進」を
謳っているので今と根本的に同じですよね。又日本で言えば、西暦 578年に聖徳太子が
百済から宮大工を招いたのが起源とされる社寺建築の「金剛組」は、いまや1400年以上
の伝統を持ち、日本どころか「世界最古の法人」と言われている。もっと古いものが、
見つかる可能性もあるのだが、日本の歴史でもこうした、寄付や慈善事業体としての、
会や組合の運用が起こっていた。こうした運用最古の共同体が残っているのは、共生の
思想の中には、宗教と違って同じ共済集団となって、技術や財産を残そうと言う意志が
あった事で起こった事だった。ただそれでも、オランダ東インド会社のような永続的な
投資を前提とした会社は、他国にはなかったとされている。投資先が「10年20年ずっー
と」と言うスパンが長引いていき、今日の株式の永続性が生まれ、「会社は継続するも
のだ。」という近代的株式会社の概念までこの時初めてオランダで誕生した。日本の利
潤を子孫に残す。と言う考えと違い、残す為に利潤を配布する。と言う考え方のようだ
。そもそも東インド会社は、肉を腐らせないためコショウが重宝され、胡椒一俵は城が
買える、船が買える。とされる高級品だった時代である。この高価なコショウの輸入を
求めて航海に出た。と言われる。コショウ貿易は当時、肉よりもずっと値段が高かった
。つまり、コショウを買えるほどの富裕層は、もともと腐りかけの肉を食べる必要がな
かった。コショウは肉の保存目的ではなく、風味つけの「よりおいしく肉を食べたい」
という欲望を持った諸侯の料理人に、グルメを目的に流通していた。つまり、グルメへ
の欲を満たすために経済が動いていた。日本でいう「食の贅沢は国を潰す。」と言う諺
を国王はわざわざ行っていたのだった。そして商人もわざわざ危険な航海をして、東イ
ンドまでコショウを取りにいかせ、航海が成功する度に莫大な利益が生む商売を始めた
。この為投資と言う金儲けを目的に事業に出資する人が出てきた。それが株式会社の始
まりだが、それが又ロシアの経済を助けた。最初の大口投資家がロシア皇帝だったから
だ。

1690: 楓十座と仲村みうの後日談:18/11/02 15:49 ID:5..
元人気グラビアモデルで現AV女優の仲村みうは
ホストと界の帝王の楓十座と毎日セックスしているらしい

残念な話は仲村みうはAVの新作話も出ているから
本格的な熱愛ではなくセックスフレンドなのだろうか…?

1691: 一般人の志乃舞とはこんな人です↓:18/11/02 16:02
                                 ウソウソ                  ウソウソ
息を吐くように嘘をつく .                   ウソウソ         ウソウソ       ウソウソ
                         .ウソウソウソウソウソウソウソウソ     ウソウソ      ウソウソ
  ∧_∧         ∧_∧      ウソウソウソウソウソウソウソウソ       ウソウソ     ウソウソ
 <丶`◇´>すぅ〜 . <丶`○´>はぁ〜 ウソウソ       ウソウソ        ウソウソ    ウソウソ
⊂    ⊃     .人 Y /      ウソウソ       ウソウソ              ウソウソ
 (    )      ( ヽ し                ウソウソ             ウソウソ
 〈_フ__フ      .〈_フ__フ              ウソウソ            ウソウソ
                                   ウソウソ           ウソウソ
                                  ウソウソ          ウソウソ

1692: 一般人の志乃舞とはこんな人です↓:18/11/02 16:10
         ,、='' ̄::::::::::::::: ゙̄'''ヽ、
       /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
     /:::::_,_、:::::::>‐-、:::::::::::::::::::::::::::::
     /::::/~ヾ,}::::j|  。 }::::::::::::::::::::::::
    l::::/|_ ゚ ,.>ー、ゞー≠ ̄ヽ::::::::::::::
    |::/ ヾ≦ヘ,_ノヽ      \:::::
   |Y     l|         ヽ
   |ノ〆    l|       ー-  |   5ちゃんねるとか
  /| /      l|       ー-  |
   l / r   」{,        ヽ  |   おーぷん2ちゃん
   l,  ヘ_ _,,>ー=、_   /
    ∧   `Σ,,、-‐─゙ゝ=´    /  全部アクセス規制されても
     ヘ   ===一       ノ
      ∧                己が正しいと言い張るよ
       \≧≡=ニー   ノ

1693: ↑それは:18/11/02 16:12
お姉さんはスマホまた買い換えれば
いいと思い込んでいるからなのでは?

1694: 名無しさんAA:18/11/02 19:26
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 120 

 正確には、「高い値段でも購入したい」という食欲を狙って、出資者が金儲けをした
ということになる。当初の大航海時代の冒険者たちのスポンサーは、ヴェニスやジェノ
ヴァの商人が多く、率先して出資していたとされる。しかし最初の頃は同じ、その都度
の出資が多かったとされている。あのコロンブスも成功にたどりつく前に、何度もスポ
ンサーを募っては失敗している。誰も見たことがない未知の大陸を目指すわけですから
、出資を引き出すには高いプレゼン能力が求められた。彼らは、今のベンチャー起業家
のように、出資者に対して自分の事業(航海)がいかに魅力的で儲かるかをアピールし
、必死にプレゼンした。と言われる。ロシアのピョートル大帝、イギリスのエリザベス
女王と、必死に諸侯や大公の出資を引き出していた。そうして航海が儲かることが判明
して行くと出資したい人が増えて、やがて会社化していった。1492年のコロンブスがア
メリカ大陸に到着したことで、これまでは食糧難で欧州の人口はまばらだったのが、急
に人口増加に転じて経済流通が発達した。アメリカ大陸にしかなかった物品も世界中に
広まったからだ。このことで、ヨーロッパ世界の食文化は飛躍的に変化しグローバル化
していった。そして乗じて農耕にも潤いがでた。例えばばトマトやなすはアメリカ大陸
から発見されてヨーロッパに伝わった。ジャガイモやトウモロコシ、唐辛子やたばこも
同じ様に輸入品だったが、アメリカの新大陸でもヨーロッパでも作られだした。食文化
というのは意外と後になって定着したものが多く、アフリカが未開地だったのはトウモ
ロコシも、稲も自生種があるにはあったが、今の様に大きくも無く育ちも違う小さな物
だったし、虫にや乾燥や病気に強いが、2〜3割程の重さの実しかならない物だった。
小麦粉のパスタは中国からシルクロードを渡ってきたという説さえある。つまり、小麦
粉はパンしか作れないものだった。もともとイタリア料理にはトマトソースもパスタも
なかった海鮮や日干しの肉の焼き料理しかなかった。ドイツ料理にもジャガイモがなか
ったし、インドカレーにも唐辛子は割に少なかった。その代わりに、イタリア料理は生
ハムをメロンにくるんで食べるレシピがローマ時代からあったと言う。オランダ東イン
ド会社は、「会社は永続するもの」という概念と共に、無限責任から有限責任への切り
替えが起こった。「無限責任」は、仮に航海が失敗して船が沈んだ時、借りた船の場合
だと、株主が全額弁償しなければいけなかった無限責任で、これがイギリスの末代まで
の支払う保険の元になったが、オランダはそれを捨てた。無限責任は当初から超高額な
金額での出資者を募り、出費には支払い能力がある人を厳しく審査した。

1695: 名無しさんAA:18/11/02 19:26
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 121 

 出資希望者に経済力があるかどうか、わざわざ住まいや土地や家を見に行ったとさえ
言われる。しかしピューリタン革命でバチカン系統の諸侯の援助が無くなり、取引に参
加できる富裕層もいなくなり、大きな資金も集まらなかった。当然株式の取引も、活発
になることはなかった。そこで、株式の「有限責任化」が始まり、無限責任の支払い能
力を限定せず、株式発行額のみの責任として広く一般からも出資者を募るようになった
。企業は出資者の審査に手間暇を掛けず集金した。お金持ちでなくても出資させ、市場
が活性化した。結果、アムステルダムの取引所では商品、為替、株式、海上保険、先物
取引など、いち早くさまざまな金融商品が取引された。ここにちゃっかりイギリス海上
保険が組み込まれて運用された。この銀行の手数料運用が生まれていた。つまり多くの
出資者を募る中で、その出資者自身が保険や商品などコーデネイトしセットした証券や
株券を発行運用した銀行が生まれていたのである。それだけオランダでは早々と株式の
市場が発達した。アムステルダム銀行(アムステルダムぎんこう)はオランダのアムス
テルダム市当局が設立した公立の振替銀行である。ヴェネツィアのリアルト銀行がモデ
ルとされている。あらゆる種類の貨幣を預金として受け入れ、法定換金率での換算した
銀行通貨グルデン(ギルダー)で払い戻した。フォンテーヌブローの勅令とジョン・ロ
ーの経済政策破綻でユグノー資本の預金が殺到した。実は利子や手数料を取らない銀行
業務はエジプト時代からあった。ただし少し違った形で運用されてて王家の持つ奴隷を
増やす仕組みだった。その後イスラム社会で整備されたが、同じ様に利子や手数料を取
るのは悪行とされた。バチカンのカトリック教会にも同じ銀行業務が寄付金や布施や拝
謁料が十字軍遠征の協賛金などと共に運用されたが、そこでも運用は慈善事業であり、
利子手数料は宗教とは相反すると批判され、隠れて外為送金で利子として運用していた
。つまり通貨の違いで教会は儲かっていたのである。バチカンのこの方式を、教徒は許
さなかった。一番批判したのがユグノー教徒であった。教会規定ではユダヤでも他教徒
への利子は行って良かった為、貸付の多くは他のユダヤ教徒などで行い自宗徒には貸さ
なかったので、ユグノーは逆にユダヤ教徒から高い利率の金を借りて事業を興していた
。1605年の市議会声明に「長い間、主要な商人たちはセビリアやヴェネツィアのような
銀行の設立を求めていた」と書かれている。16世紀のアントワープでは、公的に預金・
振替業務が禁止されていたため公立の振替銀行は存在しなかったのだ。


1696: 名無しさんAA:18/11/02 19:27
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 122 

 そうした業務は民間の兵を持つ金融業者等か教会が担っていた。そしてアムステルダ
ムも公立振替銀行ができるまでは私兵を持つ民間に業務を委ねていた。民間で振替業務
を行うカシールは、16世紀から為替手形の支払に法定重量を満たさない悪貨を債権者に
引渡し不当な利益をあげていた。17世紀初期に、カシールは多種多様な鋳貨が流通し
ていたことを理由に現金での払い戻しを嫌い、現金払いに1〜10%のプレミアムを要求
し、支払指図の事前了承でこれに代えようとした。しかし、このような行為は商取引を
著しく阻害したため、商人たちとの軋轢が起こっていた。このような状況を打破するた
め、アムステルダム銀行が1609年に設立されるとともに、民間金融業者の振替業務が禁
止された。この時731人の出資者のなかにはユダヤ人が25人いた。とされるローマ
帝国時代には、皇帝が変わる度に金貨の価値が変化した。いわゆるデノミとインフレが
、結構頻発したのだ。市内の生活には問題が無かったが、鋳造されて新たな悪貨となっ
たり、国外コインが氾濫したりである。こうしたものは目利きが必要であったし、更に
海外向けの交易にはその目利きの持つ知識は不可欠だった。貨幣制度が混沌としていた
中世での支払いは、常に特定の鋳貨と結びついていなければならず、両替&鋳貨の売買
に従事した「両替商・銀行業者」という様な特別な職業が必要となり、特にベネチヤ商
人には必要だった。この当時非常に難しく、深い専門知識を必要とした職業は、政権に
つながらない所で行うべき輸入の仕事だったし、確実に儲かる仕事であった。両替商は
「差し出されたあらゆる金貨・銀貨全ての金銀含有量を確実に知っていなければならな
い。」物で、長年にわたってこの実務に携わってきた熟練の両替商は「鋳貨をいちいち
秤に架けなくてもこれを鑑定でき、一瞥するだけで十分」だった。と言う。さらに彼ら
は「種々様々な鋳貨を、それと等価値の他の通貨に躊躇なく換算しなければならない。
」かくしてシチリア島のパレルモには多くの両替商が存在し繁盛した。やがてイタリア
のほとんど全ての都市に、ギルドとして結びついた両替商が登場したが、彼らの多くは
教会前の広場に両替店を設けて教会の設けた規制の枠の中で商売をしていた。イタリア
人両替商達は、西欧・オリエントの諸都市における両替商の代表的存在だった。振替業
務は、両替商・銀行業者が両替と同時に営んでいた。


1697: 名無しさんAA:18/11/02 20:29 ID:zmw
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 123 

しかし、こうして繋がり銀行業者のある顧客から他の顧客に支払いが必要な場合、それ
は「銀行業者の帳簿に記入されている支払人の口座」から「受取人の口座」へと「支払
い相当額を書き替える」ことで済ませる事に変化した。この振替の仕組みはシャンパー
ニュの大市で著しい発展を遂げた。しかし、その元締めは教会にある図書館を利用出来
た司祭の配下で守られてその行為が保証されていたのである。こうしてバチカンは大市
に到着した商人達の、「まず両替商に持参金を委託する」「支払いと受け取りは大市の
終了後に、両替商の帳簿の上で相殺され」「残った差額のみ現金で決済する」のを監視
する役目を負った。大きな取引には司祭同士の立ち合いや話し合いが必要であったが、
両替商は常に「顧客の要求に応じるのに必要な多種多様な鋳貨,金銀の地金を用意し」
て「鋳貨・貴金属地金の購入」も行っていた。振替業務には「預金が存在している」=
両替商に金銭の保管を委託していることが前提だったのである。これがスイス銀行の成
り立ちだった。その後、諸侯や王侯や都市は両替商に貨幣を預託し出した。両替商は彼
らに代わって「支払事務を司る」「財政管理も引き受ける」役まで行っていった。こう
して両替商は同時に銀行業務にも関係し、預金の引受のみならず資金の貸出も行った。
「しばしば鋳貨親方でもあった」「都市の割引銀行も、両替だけでなく預金・貸付業務
を営んだ」というまで発展した。大市によって為替手形が出来、中世に貨幣の交換には
2つの行為を大々的に行った。一つは両替と言う2種類の異なる鋳貨を交換する。(=
別の鋳貨で払い込むのと引き換えに、ある特定の鋳貨でその払い出しを受ける)」とい
う外貨交換。更にもう一つは手形と言う(両替する金額の「払込場所と異なる場所で異
なる時期に払い出しが行われる」約束した支払い)の信用貸しや外為業務である。イタ
リア・プロヴァンス・その他の商人達は、しばしば盗賊など危険な目にもあった。その
毛織物やその他の商品購入や売りのためにシャンパーニュの大市へ旅行する際「莫大な
経費を要し、途中で略奪・襲撃される危険もあった。のだった。この為の大金の携帯を
避けようとし、さらに大市開催地で、その地の通貨を両替によって手に入れる必要があ
ったが、この危険の代替えに、「この両替を予め出発前に本国で済ませて、しかも両替
による現地通貨の支払いをすぐに(出発地で)受け取らず「証券1枚を受け取り、大市
開催地に到着してから証券を提示して、本国で払い込んだ旨の信用で相当する現地通貨
を受け取る。」ようにした。後で出てくる電信支払いに似た外国為替の方法である。


1698: 名無しさんAA:18/11/02 20:30
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 124 

 こうして、教会の1/10税と言われた一割徴収も、イングランドで徴収した金額を道中
での略奪を恐れて、ローマに持参はする事をせずに済んだ。つまり手数料込みの為替で
ある。代わりに多種多様な鋳貨のままで、ロンドンにいる両替商の1人に払い込む事で
、両替商は徴収者に対して『ローマにおいてフィレンツェ通貨でそれに相当する金額を
支払った旨の証書を交付した。」事で済んだ。この手形は「委託された特別の使者によ
ってローマ教皇庁に送付され」為替手形の始まりとなった。「振出手形:振出人から第
三者に宛てられた支払い委託」である。しかし、教会では、隠れた不正が罷り通る事で
数十年混乱が生じた。しかしここに市民が作ったヴェネツィアのリアルト銀行がモデル
となって今の銀行の形が整えられた。銀行業務に専門の教会以外のネットワークが望ま
れていたからだ。これが銀行の始まりだった。これまで癖のあるある種の地域の教会や
教義の違う敵対する教会などの不信感や汚職や手数料の吹っ掛けがここで消滅したのだ
。これは実際の経過としては「ある銀行がある金額を払い込んだ顧客に対して」「手形
受取人に表記金額を払い出すことを指定された、在外国支店宛ての手形を振り出す。」
と言う行為だった。10世紀の頃までには初期の様に発行人がサービスで、手形振出人
自らが支払い履行地に行った。この「両替商もしくは銀行業者」の生業(なりわい)に
おいて商品代価を、王の旅行先や諸侯の現物仕入れ先に於いて、郷里に持って帰って来
てから払う。という役目だった。つまり銀行家自身が危険を引き受けた上で、手形の支
払いが行われる指定地に輸送してそこで支払いを履行する」という点にあった。これは
アメリカの西部劇映画の金塊を運ぶ幌馬車隊や弾丸列車のようなものだった。しかし彼
ら引受者もまた商品取引に従事しており、大市(支払い履行地)においては、当然逆に
輸出もしていて工業地帯は農業地帯或いは漁業地帯とこの三つは食料供給において経済
活動していて、商品代金は請求書と領収書の交換のみで、その精算処理で、貨幣を全く
携行せずに大市へ赴くことも多くあり、こうして取り立てた商品代金で支払いを履行で
きる事もしばしばだった。こうして初期(13世紀初〜)の約束手形は「支払いは手形振
出人の代理者である銀行家 もしくは、彼に指名されて支払地に到着した者によって行
われねばならない。」という条件が登場する。指名された者は手形振出人からの「支払
状」によって支払いの通知を受けた。この通知(簡単な委託証券)自体は最初は手形で
はなかったのだが、やがて「手形を振り出した銀行業者が支払義務を負った」形のきち
んとした為替手形にまで発展した。

1699: 名無しさんAA:18/11/02 20:30
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 125 

 しかし、この時期から『手形引受』が制度化され、とんでもない方向に銀行家は走っ
た。食料生産が乏しく諸侯が争った時、諸侯が決めた戦争捕虜や戦争賠償金の支払い代
理業務である。諸侯は投石機や弓や鉄砲などを供給してきた業者に、その処理の代表を
つけた。こうして城主や庶民は生死を別けて戦うのだが、死の商人とされる いわゆる
軍事顧問団はその算術に於いて、自国の住民や食料生産を上回る戦いをしない事を申し
合わせるのである。こうなるとこの銀行家は戦争行為の保証人だった。停戦交渉が難し
くなる上に領土や賠償金精算が出来なくなる事に銀行家が渋った時には戦争は出来なか
った。相手の持ち分の資産や銀貨や農奴やあらゆる物が計算の上で、賠償金は決められ
、この賠償金以上の戦争は出来ず、保証人として大国の相番が必要で後ろ盾がなければ
鉄砲の弾や食糧や兵員や農奴が集められなかった。こうなると、もはや戦争はゲームで
あった。銀行の取引で「要求に応じて支払う意思がある。」ことを明示して、その金額
が決められ、この文言は無条件で手形に必ず記入されなければならなかった。こうした
契約社会の登場で、『手形拒絶証書』も一般化した。「手形を正当に呈示したにもかか
わらず引受を拒絶された」ことを公的に示すもので、手形支払人が手形振出人に、全く
債務を負っていないがゆえに支払いを拒んだ。という勝手なニセ小切手や手形の事件も
あった。これは戦争に負けた城主自ら作ったニセ手形事件や大きな公国の、盛んな罠と
して利用した事件が頻発した。もっとも普通の庶民はこうした悪質商人や城主のもつ権
力に逆らえなかったが、同時に手形などの交換には関わらなかっただろう。これらは、
イギリスに於いて保険として発展した。つまり第三者の諸侯にそれらの保証をさせたの
だ。その保証は直ぐに掛け金として、積み上げられ、その場を提供した王は2割がもら
えた。つまりA国かB国かを掛けてどんなに小さくかけても1でありそれから小さくな
るのである。こうなると1:2であればもし同額であれば一応は3倍の金額が胴元には
集められる。ここでA国に2倍払えば、同額が残りB国に1、5倍払い戻しすれば胴元
は空になる。つまり儲けがない。そこで胴元も入り1,3倍で払い戻しする形では、元
から3割は増える形だ。こうなれば胴元は10〜3割が入り貴族のギャンブルとして成
り立つのである。そこで問題なのは掛けた諸侯が支払わない事だった。そこで子や孫ま
で支払わせる永代負担としたのだ。これは黒人のみならず白人も奴隷になる事を示した


1700: 名無しさんAA:18/11/09 00:42
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 126 

 ヴェネツィアからロンドンに振り出された為替手形に関する、ロンドンでの手形拒絶
証書が幾つも記録されている15世紀は、政治変動の時代でもあった。麦などの不作が
続き、時に大航海時代に起こった輸入された外来種の芋や茄子やトマトが命を救った。
シャンパーニュの大市場は大きな賑わいで、普通はここの市場の商店で支払いの期日・
場所などが定められていた。手形は恐らくは最初に海上貿易で用いられ、後に国内商業
にも使用されたのだろう。「商人が証書によって行った支払約束」として、南ヨーロッ
パ・西南ヨーロッパ・全域に及び、イタリア人が金貸し&商人として活躍した場所なら
どこでも広く普及し、13世紀には既にあらゆる教会にその知識はあった。既に1291年
フィレンツェの会社の在ロンドン代理人は「為替手形によってシャンパーニュの大市か
ら資金を受け取る」→英国フィレンツェ商人は、英国から商事会社の仲介によって本国
へ送金する→フィレンツェにいる債権者は、英国に滞在しているフィレンツェ人の債務
を取り立てる→英国の修道院の代理人は、ローマ滞在に必要な金額を手に入れることを
保証される。という手間を行っていたであろう。こうした事が、宅急便のゴルフパック
の様に普通に普及し、やがて手形取引はイタリア・フランス・イングランド・スペイン
・フランドルの主要商業地間で広く活用されるようになり、商業手引の流通経済は、種
々異なった場所が記入されている手形の支払期限分類を行われ、一層複雑化して、手数
料や利子の取り立てで潤うことになった。しかし、ネーデルラントと言う商業地域での
戦さをするドイツでは、往々にして商人は送らせ、手形の導入は遅かった。さらにドイ
ツでは、たとえ手形が「フランドルとの商取引に利用され、ドイツ各地間の商業に支払
い手段一般として行われた」としても、手形取引の重要性はイタリア商業でのそれより
もずっと低くその利用も少なかった。西暦120年頃で古文書として発見された約七千
通もの手形(1249〜91年)は、公的文書として証拠力と履行力を有していた物だった。
これらは「イープル市の参審人の面前で署名され、手形の受領と同時に裏書きされ公示
された。」ものだった。証書には「ノコギリの歯形に切り取られて、片方は債権者に手
渡され、もう片方は市の文書館に保存された。」とあり勘合貿易のような形だった事が
判明している。

1701: 名無しさんAA:18/11/09 00:42
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 127 

 この大英帝国で名誉革命と言われるイングランドにわざわざオランダネーデルランド
の、オラニエ公のウィレム3世を呼ぶには理由があった。それがネーデルランドの中心
アムステルダムの金融事情にあった。実はユグノー資本は莫大な蓄えを持っていた。こ
のネーデルランドのベルギーに於いてオラニエ公が来るまではかなり虐げられていたが
ウィレムの時代に保護されたことでベネチアの商人やロシア皇帝までがこの地の金融家
に預けて財産運用していたのである。かつてユグノーはフランスカトリックから追われ
て逃げてオランダに来て、北方民族のバイキングと混血になって、「海乞食(ワーテル
ヘーゼン)」と呼ばれる海賊軍団(ゼーゴイセン)を組織して、低地地方の沿岸を無差
別に略奪を繰り返しながら、徐々に勢力を回復した。このユグノーが海に出て資産の蓄
えとしたのがマン島であり、管理したのがイングランド銀行だった。最初はまだまだこ
のオランダ金融資本どころかスペインやフランスさえにも追いつかない小さな小国金融
で資産でしかなかった。しかし薔薇戦争を最後に内紛が収まり、急速に資産がマン島に
集まってきた。百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱であっ
たこの諸侯の対立に、資産の保全が程よい地政学上の位置にあったからだ。共にプラン
タジネット家の男系傍流であるランカスター家とヨーク家の、30年に及ぶ権力闘争で
あった百年戦争は。最終的にはランカスター家の女系の血筋を引く、テューダー家のヘ
ンリー7世が武力でヨーク家を倒し、ヨーク家の王女と政略結婚してテューダー朝を開
いて終了したが、元々プランタジネット家傍流のランカスター家と、ヨーク家の間で戦
われた権力闘争で、ヨーク家とランカスター家は、ともにエドワード3世の血を引く同
じ家柄であった。その為にランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇を家紋としてい
た。その為後世において、薔薇戦争と呼ばれている。この時の戦争は主に大土地所有の
大貴族の間で行われ、彼らは王族たる公爵と、少数の侯爵や伯爵、そして多数の男爵と
騎士、そして土着のジェントリたちであった。彼らは広大な私有地を持って多くの農奴
を抱え、一方で投資や貿易によって財産を増やし、政略結婚によって 政治的影響力を
拡大して争ったのである。彼らは封建的な扈従(こじゅう)からなる武力によって支え
られており、しばしば外国人傭兵も抱えていた。この時、貴族の威信は「扈従団」(ア
フィニティ)によっても計られた。扈従団の一員となった扈従はその貴族の「お仕着せ
」(そろいの制服と記章)を着用し、戦役に従軍した。


1702: 名無しさんAA:18/11/09 00:48
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 128 

 兵士達は、おもちゃの兵隊の様に同じ服で、世間や王侯にアピールする戦いをし、そ
の見返りとして、貴族は、年金の支払いや法的な保護そして土地や官職といった報酬を
与えた。それは今の雇われた近代兵士の始まりだった。この非公式な「お仕着せと幇助
」は近代兵士の制度と共にサラリーマンの始まりでもあった。又この制度は百年戦争に
続く封建制度の衰退を通じて現れたもので、封建制度は今まで本来の土地の授受を媒介
とした封臣として貴族に仕えるあり方ではなく、土地では無く金や食糧や地位などで「
仕着せされた扈従」として貴族と請負契約を結ぶ為、歴史家の言うところの「擬似封建
制度」の一環を行ったのであった。それは石工達の職人形態からの発達だった。従来か
ら、船大工や裁縫やパンやなど農業集団と離れた所では、御雇い番は必要だった。親方
の納屋や屋根裏に住まわせもらい仕事に従事する事で、食糧があった。しかし、敬虔な
神を愛したユグノーの資本家は違っていた。不正をするバチカンにほとほと嫌になって
いたのである。もともとユグノーの人々は多神教のミノス教徒を太陽神のみに祈りを捧
げた特殊形態をそのままローマがキリスト教に変えていた。言わば隠れたギリシャ神話
のゼウス信仰信者だった。古来からの機織りや薬草や地理天文学などに長けた人々だっ
た。と言える。この最初の銀行が最初の白人ユダヤ教徒として両替の事実は、不思議な
ものだ。マン島は、グレートブリテン島とアイルランド島に囲まれたアイリッシュ海の
中央に位置する島で。面積はちいさな独立国だ。約572km2。主都はダグラス。人口は80
,058人(2006年時点)マン島は複数の国の統治権がある複雑な歴史を持っており、周辺
の島やイングランド・アイルランドとも異なる独自の文化を持っていた。1405年マン島
領主を名乗るイングランド貴族のスタンリー家(ダービー伯爵)が代々統治してきた。
1765年のマン島購入法成立によって王室がマン島の支配権を購入し、それ以降はイギリ
ス(連合王国)の君主がマン島領主を世襲している。しかしマン島は法的にはグレート
ブリテンおよび北アイルランド連合王国の一部ではなく、また主権国家でもない。イギ
リス連邦の加盟国でもなく、自治権を持ったイギリスの王室属領である。しかしイギリ
スとの密接な関係からイギリス連邦の一部と見なされることも多く、イギリス連邦議会
連合やコモンウェルスゲームズ等に参加している。


1703: 名無しさんAA:18/11/09 01:17
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 129 

 EUには参加せず、代表も送っていないが、イギリスの特別領域として扱われている
。何故か白人の金融家としては不思議なのか。それは今の最新研究ではユダヤ人とは、
褐色有色人種であり、男系男子相伝の本分のままであれば白人ではあり得ないからだ。
このユダヤ教はペルシャの宗教ではない事も判明はしているが、紀元前時代に先に述べ
た様にペルシャでは大流行していた。その中でも紀元後に最も流行したのはハザール王
国だ。ハザールの揺籃の地は、カスピ海沿岸の草原の地である。この草原には多種多様
な民族が居住し、東方の旅行家・地誌家も、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の著作家
も、これら諸民族が絡む様々な事件・事変について記録を後世に残している。ただし、
ハザール人がいつ頃なぜ登場したのか、具体的な記録はない。448年、ビザンチン帝
国からフン族のアッチラ大王への使節団報告の中に、「戦士民族」としてのハザール人
が登場している。この時期のハザール人はフン族の配下で活動していたようである。ア
ッチラ大王の死後、フン帝国が崩壊すると東ヨーロッパに権力の空白地が生じた。そこ
を通っていくつもの遊牧民が、波が打ち寄せるように次々と東から西から押し寄せてき
た。6世紀初頭、ササン朝ペルシア帝国のカワード1世の治世の時代、ハザール人は、
コーカサスの向こうの地域、すなわちグルジア、アルバニア、アルメニアを占領した。
6世紀半ば、カワード1世の息子であるホスロー1世の治世時にも、ハザール人のペル
シア国境地帯、特にアルメニアやアルバニアへの侵入は、止むことがなかった。現代の
中では、雇われ戦士のグルカ兵である。この、グルカ兵は今はインドの貧民から募集さ
れているが伝統から言えばイラク人やトルコ人であった。しかし、かつて象を使ってモ
ンブランのイタリア小都市を攻めたアッテラ国や、エジプトやエルサレムを守ったの巨
人族を打ち破った話を思えば、あながちグルカ人=ユダヤ人説が嘘ではないかもしれな
い。日本人は第二次世界大戦ではインドを前にして今のミャンマーで大敗し、中国の中
の抗日に苦戦した。またハワイ沖を占領するにアメリカに躊躇し、ユダヤの経済制裁に
船を沈めた。これは、得体のしれないこの宗教が宗教でなく生きる知恵として伝統的に
利用されてきた歴史を物語る。グルカ兵=ハザール人=正統ユダヤは正しいのかも知れ
ない。単に白人王侯=金持ち=世界金融が、その考えや力を利用しただけかもしれない


1704: 名無しさんAA:18/11/09 01:17
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 130 

 この時期、ハザール人はコーカサスの北にいる種族の中で最も力のある種族となった
。その後、ハザール人は台頭してきた突厥(西トルコ帝国)の配下に組み込まれたが、
帝国内でも最強の実戦部隊として活躍した。627年、ビザンチン帝国の皇帝ヘラクレ
イオスは、ササン朝ペルシア軍との戦いに備えてハザール人と軍事同盟を締結した。ハ
ザール人はこの対ペルシア遠征軍に4万人の援軍を出し、ペルシアの首都クテシフォン
に迫った。なおこの時がビザンチン史料におけるハザール人の初登場する。7世紀中頃
、カスピ海沿岸草原においてハザール王国(ハザール汗国)の創成が開始された。権威
を誇った突厥(西トルコ帝国)は分裂し滅びた。ハザール人は、彼らの支配から離れる
ことができた。ハザール人は自らを「西突厥」の継承者と名乗った。ハザール人は勢力
を急速に拡大していき、アゾフ海沿岸のブルガール人を服属させ、黒海沿岸北部も手中
に納め、はては、クリミアの草原の大部分を占めるまでに至ったのであった。クリミア
沿岸諸都市もハザール王国に組み込まれた。北コーカサスの山麓や隣接草原において、
ハザール王国が国力を充実させていた頃、新たな敵が南方から台頭してきた。アラブ国
(イスラム帝国)である。アラブ軍は、シリアとメソポタミアを蹂躙するや、北方に足
を向け始めたのである。裏コーカサス諸国はアラブ軍との戦争で火の手に包まれるよう
になった。7世紀の半ばから、アラブ軍は組織的に裏コーカサス攻撃を繰り返し、略奪
を欲しいままにするようになった。アラブ軍は繰り返しハザール王国の領土に侵入し、
都市を略奪して、破壊し、集落を焼き払い、耕地・農園を蹂躙し、冬営地から家畜群を
強奪し、住民を捕らえ、奴隷として連れ去るのを常とした。ハザール王国とアラブ帝国
(イスラム帝国)は、大きな戦争を2回している。653年の「第1次アラブ戦争」は
、アラブ軍がハザール王国に遠征して、撃破された。「第2次アラブ戦争」は、ジェラ
ーフ率いるアラブ軍がハザール王国に遠征して、ベレンジェを攻略したのがきっかけで
始まり、737年までの16年間続いた。「第2次アラブ戦争」において、アラブ遠征
軍に攻撃されたハザール軍は、アルバニアに侵入して、アルデビールを攻略し、アラブ
軍を撃滅。しかし、新たにマルワーン率いるアラブ軍が遠征してくると、ハザール軍は
2つの峠から奇襲をかけられ、ボルガ川まで退却。最終的に、アラブの将軍マルワーン
に講和を求めることを余儀なくされたのであった。

1705: 名無しさんAA:18/11/09 01:18
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 131 

  この「第2次アラブ戦争」は、アラブ史料では、双方合わせて10万あるいは30
万の兵士が従軍したという。そして、マルワーンはハザール王国を攻撃した最後のアラ
ブ将軍となり、これ以降、ハザール王国とアラブ人の戦争に関する記録はない。650
年に成立したアラブ帝国は、711年にジブラルタルを渡ってスペインに侵入、ピレネ
ー山脈をこえてフランクにはいったが、732年トゥール・ポワティエで敗北し、西へ
の進出は終了。東は中央アジアまで進出したが、751年タラス河畔の戦いで唐に敗れ
、100年間におよんだアラブの征服戦争は終了したのである。ハザール王国はササン
朝ペルシア帝国、ついでアラブ帝国と激しい戦いを繰り返したが、その両国と敵対して
いたビザンチン帝国(東ローマ帝国)とは同盟関係にあった。これまで、この二大勢力
は互いに戦ったことは一度もなかった。それどころか、ハザール王国はしばしばビザン
チン帝国の敵と戦った。それは明らかにビザンチン帝国に有利となることだった。8世
紀のアラブ侵略以後、ハザール王国の首都はカスピ海沿岸西岸のサマンダルに移され、
最後にボルガ河口のイティルに移った。ハザール王国の南方の前線は平定され、イスラ
ム教国との関係も落ち着いて、暗黙の停戦協定にまで至った。ビザンチン帝国との関係
も、明らかに友好的な状態が続いていた。9世紀に入って数十年の間、ハザール王国は
平和を享受した。ビザンチン帝国を775年から780年まで支配したレオン4世。彼
はハザール王室の血を持つ皇帝で、「ハザールのレオン」と呼ばれていた。彼は、前皇帝
コンスタンチヌス5世と、ハザールの王女チチャクとの間に生まれたハーフであったの
だ。この結婚は、ビザンチン帝国とハザール王国の友好を願って、732年に行われた
ものだった。アラブ帝国に代わって、新たな強敵が北方から台頭してきた。バイキング
と呼ばれる北方部族の雄ルス人(後のロシア人)である。834年、ハザール王はビザ
ンチン帝国に、北方への防御(対ルス人対策)のための砦を築くための援助を求め、直
ちに建設された。こうして「サルケル砦」が誕生した。この「砦」のおかげで、ドン川
の下流域や、ドン・ボルガ水路に沿ったルス人の艦隊の 動きを封じることができた。
10世紀半ばまでの間、全体として見ると、ルス人の略奪は主としてビザンチン帝国に
向けられていた。それに対してハザール人とは、摩擦や時には衝突はあった、が本質的
には交易を基礎とした関係を結んでいた。ハザール人は、ルス人の交易ルートを押さえ
ることができ、ビザンチン帝国やイスラム教国を目指して 国を通り抜けていく全ての
貨物に10%の税金を課すこともできた。

1706: 名無しさんAA:18/11/09 01:20
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 132 

 ところが、この時期のハザール王国内では、国の未来を左右する大きな変動が生じて
いた。9世紀初頭のオバデア王の国政改革(799〜809年)でユダヤ教に改宗して
しまったのである。これによってハザール王国は世界史上、類を見ない「ユダヤ人以外
のユダヤ教国家」となった。しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は、次第に悪い
結果を生み出していった。もともとハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合っ
たモザイク国家である。ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、
なんと、これまでハザール人によって統括されていた国内の微妙なバランスを崩すこと
になって、ハザール人の貴族同士の間では、ユダヤ教を受容する王国中心部のグループ
と、首都や王とは離れたていた地方在住のグループの対立が目立つようになっていった
。そしてついに835年頃、内乱の火の手が上がり、支配者側が勝利すると、反乱者の
一部は皆殺しにされ、一部は国外に逃れる事件となった。この事件は、反乱を起こした
有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれる。この有力貴族は家族とともにボル
ガのロストフの地に亡命したと言われる。このロストフはルス人の商人団が築いた根拠
地のひとつであり、ここで、ルス商人団の長の娘とハザール人の反乱貴族の長の息子と
の婚姻が行われた。ルシ族とはルーシ族とも言われる。こうして「ルーシ・ハン国」こ
うして後のキエフ・ロシア国の前身が成立したのである。後にハザール王国の後継者と
してビザンチン帝国に公認されるようになった。ルーシ族は帝政ロシア時代の民族主義
的な人々は、「ルーシにおけるヴァイキング」という概念からノルマン人の事とされた
が、今だ論争は尽きず謎とされる。862年、ロシア史の中で決定的な出来事が起きた
。ルス人リューリク大公の配下が、それまでハザール王国の支配下にあったドニエプル
川沿いの重要都市「キエフ」を無血併合したのである。キエフという名前は、もともと
はハザールの将軍クイの砦からついた名前であった。やがてこのキエフはルス人の町と
して発展し、「ロシアの町の母」となり、この町の名をとった公国「キエフ・ロシア国
(キエフ・ルーシ)」が、最初のロシア国家の揺籃となった。ルス人がキエフに住み着
いてから、ビザンチン帝国に対するルス人(ルーシー族)の脅威はますます増加して、
この後200年の間、ビザンチン帝国とルス人の関係は武装闘争と友好的条約の間を行
ったり来たりしてきた。つまりユダヤ国家から離れてユダヤに戻れなかったのがロシア
人と言うロシア正教会だったのである。このヴァイキング説から行けば多神教だった事
になる。

1707: 名無しさんAA:18/11/09 01:25
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 133 

 ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国は、浮き沈みはありながらも次第に親交を深め合
うようになる。それにつれてハザール王国の重要性は減少していった。ハザール王国は
、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の通商ルートを横切っており、増大する物資の流
れに10%の税をかけるハザール人の存在は、ビザンチン帝国の国庫にとっても、キエ
フ・ロシア国の戦士商人にとっても苛立ちの原因となっていった。9世紀末あたりから
、ルス人の艦隊が、ハザールの海「カスピ海」沿岸を侵略するようになった。そして、
913年、800隻からなるルス人の大艦隊がやってくると、事態は武力衝突へと進展
し、カスピ海沿岸で大量の殺戮が行われた。この侵攻によって、ルス人はカスピ海に足
場を築く。965年、キエフ・ロシア国のスビャトスラフによって、ハザールの防衛の
「サルケル砦」が陥落してしまった。このあと、ハザール王国の首都イティルも攻撃を
受けた。ところで、『原初年代記』によれば、986年にハザール王国のユダヤ人が、
キエフ・ロシア国のウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言したとある。しかし、ウラ
ジーミル大公は、988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国
)からキリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めることになった。これ以
後、ハザール・ユダヤ人は、ロシア人に改宗を挑んだ者としてキリスト教会側から敵意
をもって見られるようになってしまう。また、同じ時期にウラジーミル大公はビザンチ
ン帝国の王女アンナと結婚。これによって、ハザール王国とビザンチン帝国の「対ロシ
ア同盟」は終焉し、それに代わって、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザー
ル同盟」ができたとされる。なお、当時、この地域で帝国としての地位を認められてい
たのは、ビザンチン帝国、アラブ帝国(アッバース朝)、それとハザール王国の3つで
あった。キエフ・ロシア国のウラジーミル大公に嫁いだのはビザンチン帝国の、王女ア
ンナであったが、アンナはその前にドイツのオットー2世に求婚された際、これをすげ
なく拒否している。理由は簡単に言えば格が違うというものであった。そのアンナが、
同じ帝国でなかったウラジーミル大公に嫁いだということは、ビザンチン帝国とキエフ
・ロシア国の格が違わなかったことを示している。それはキエフ・ロシア国がハザール
王国の後継者でもあったからでもあった。こうしてロシアもハザールも正教会と言う、
多神教のキリスト教会を作った。ユダヤを捨ててもキリストやイスラムにならなかった

1708: 名無しさんAA:18/11/09 01:25
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 134 

 ウラジーミル大公が、ビザンチンなど西側の文献で、時々、ハン(汗)とかカガン(
可汗)というトルコ系(ハザール)特有の呼び名で呼ばれているのは、これを反映して
いる。ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」ができてから数年後の
1016年、ビザンチン・ロシア連合軍はハザール王国に侵入し、ハザール王国は再び
敗北を喫した。ハザール王国東部諸都市は灰燼に帰し、壮大な果樹園やブドウ畑は焼き
払われた。ハザール王国の西部方面のクリミア半島含む地域では、比較的被害は少なか
ったが、都市は荒れて交易路も乱れた。10世紀半ばの首都イティル陥落によってハザ
ール王国は大きなダメージを受けたが、それ以後13世紀半ばまで、領土こそ縮小した
ものの独立を保ち、なんとかユダヤ教の信仰を維持し続ける。ちなみに、ハザール・ユ
ダヤ人のコミュニティは、もとハザール王国の重要都市であったキエフの町を中心にし
て、近郊にも存在していた。ハザール王国の崩壊期に、ハザール人が近郊に多く流入し
て強化されたといわれる。事実、ロシア年代記に「ゼムリャ・ジュドフカヤ(ユダヤ人
の国)」から来る「ジェドヴィン・ボガトウイル(ユダヤの勇士)」達に何度も言及し
ている。この後、キエフ・ロシア国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握
り、西のカルパチア山脈から、東のボルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて
勢力を誇るようになったわけだが、ロシア人とそのスラブ系臣民は、草原の遊牧民戦士
たちが駆使する機動戦略、ゲリラ戦法に対処できなかった。遊牧民の絶え間ない圧迫の
結果、ロシア戦力の中核は徐々に南の草原地帯から北の森林地帯へ、敗退していった。
ガリチア、ノブゴロド、モスクワの大公国へと移っていく。ビザンチン帝国では、新た
な同盟国キエフ・ロシア国が、ハザール王国の後継として東ヨーロッパの護衛と通商の
中心になるだろうと予測して攻撃したのだったが、実際はそうなるどころか、これによ
ってキエフの衰退は速く、ロシア疲弊の素となった。これはロシアの歴史の第1章の終
わりで、その後はロシアの重しがとれて、1ダースもの独立した大公国が出来、互いに
果てしなく争いあう空白の時期、スラブ版戦国時代幕開けした。この力の空白地帯に新
たに乗り込んできたのが遊牧民族のクマン人(ポロヴェツ人)である。彼らはハンガリ
ーに至るまでの草原地帯を11世紀終わりから13世紀にかけて支配した。それに続い
て今度はモンゴル人が侵略してきた。それがジンギスカンやオスマントルコの民だった。

1709: 名無しさんAA:18/11/09 01:31
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 135 

 1223年、ロシアの地にモンゴル軍が出現した。この時のモンゴル軍はチンギス・
ハンの大遠征の別働隊で、カスピ海の南回りでカフカーズを通り、南ロシアを荒らした
。そして1236年、チンギス・ハンの遺命によって、チンギス・ハンの孫のバトゥ・
ハンもヨーロッパ遠征に出発した。ボルガ河畔から、ロシアに侵入したバトゥ・ハンの
遠征軍は、キエフ・ロシア国を壊滅させ(キエフ占領)、ロシアの主要都市を 次々と
攻略した。さらにその一隊は、ポーランド、ハンガリーまで攻め込んだ。こうしてバト
ゥ・ハンの遠征軍はヨーロッパ世界に脅威を与えたが、オゴタイ・ハンが没すると、バ
トゥ・ハンの遠征軍はボルガ川畔まで後退し、カスピ海に注ぐボルガ川下流のサライを
首都として1243年「キプチャク汗国」を建てたとされる。こうして、キプチャク汗
国はロシアの大部分を支配することになり、その領土の外にあった諸公国も従属関係に
入り、ここに歴史家の言う「タタールのくびき」が始まった。ちなみに、この「キプチ
ャク汗国」が首都にした都市サライは、またの名をイティルといった。すなわちハザー
ル王国の首都だった都市である。このことで謎が多く、ハザール王国がいつ滅亡したの
か具体的な記録は残されていないが、この時期1243年、ハザールの中心部はバトゥ
・ハンの権力下に吸収され、ハザール王国は「完全に崩壊」した。とされる。尚、丁度
この時期に、バチカンの情報網は、離散したハザール人についての記録を残している。
1245年、ローマ教皇イノセント4世は、「キプチャク汗国」のバトゥ・ハンに使節
団を送っている。新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探るのが主な目的であった
。使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って1年後にボル
ガ川流域の下流にある「キプチャク汗国」の首都に無事到着した。この使節団の長だっ
た修道士カルピニは、帰国したあと、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。その歴史
的、人類学的、軍事的資料の宝庫の中には、彼が訪れた地域に住む人々のリストもある
。そのリストの中で北部コーカサスの人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と
並んで「ユダヤ教を信じるハザール人」の名がある。今のところ、この記録が民族とし
てのハザール人についての最後の「公式記録」とされている。ところで、ハンガリーの
歴史学者アンタル・バルタ博士は、著書『8〜9世紀のマジャール社会』でハザール人
に数章をあてている。8〜9世紀のほとんどの期間、マジャール人(ハンガリー人の祖
)はハザール人に支配されていたからである。しかし、ユダヤ教への改宗には、一節を
あてているのみで、しかも困惑もあらわである。

1710: 名無しさんAA:18/11/09 01:33
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 136 

 「我々の探求は思想の歴史に関する問題には立ち入れないが、ハザール王国の国家宗
教の問題には、読者の注意を喚起しなければならない。社会の支配階級の公式宗教とな
ったのはユダヤ教であった。いうまでもなく人種的にユダヤ人でない民族がユダヤ教を
国家宗教として受け入れることは、興味ある考察の対象となりうる。しかし、我々は次
のような所見を述べるにとどめたい。この公式のユダヤ教への改宗は、ビザンチン帝国
によるキリスト教伝道活動や、東からのイスラム教の影響 および これら二大勢力の
政治的圧力をはねつけて行われた。しかも、その宗教はいかなる政治勢力の支持もなく
、むしろほとんどすべての勢力から迫害されてきたというのだから、ハザール人に関心
を持つ歴史学者すべてにとって驚きである。これは偶然の選択ではなく、むしろ王国が
推し進めた独立独歩政策のあらわれと見なすべきである。」と。紀元740年、黒海と
カスピ海に囲まれた「ハザール」(カザール)という名で知られる地、ほぼ全土が今日
のグルジアに当たるが、ロシア、ポーランド、リトアニア、ハンガリー、ルーマニアの
一部にまで及んでいたその地に、現代のユダヤ民族は誕生した。ちなみに、現代のユダ
ヤ民族は、ユダヤ人ではない。なぜ、そのようなことになったのか。ハザール(カザー
ル)王国の人々は攻撃に曝されていた中で悩んだであろう。イスラム教徒とキリスト教
徒の両側からはさまれたハザールは、常にその双方からの攻撃に脅えていたのだから。
ハザールの人々は、イスラム教もキリスト教も信仰せず 偶像崇拝を行なっていたため
、それぞれの宗教に改宗させようとする人々が今にも侵攻してこようというところまで
きていたがその双方が受け入れ難かった。ハザールのブラン国王は、自国を攻撃から守
るには国民を二つの宗教のいずれかに改宗させるほかないとの決断を下した。だが、ど
ちらにも悩みがある。イスラム教に改宗すれば、キリスト教徒から攻撃され、キリスト
教に改宗すれば、イスラム教徒に攻撃される。国王は、イスラム教ともキリスト教とも
折り合いをつけられるもう一つの宗教があることに気づいた。それがユダヤ教である。
国民をユダヤ教に改宗させれば、イスラム教徒とキリスト教徒のどちらの機嫌も損ねな
くてすむ。どちらの人々もユダヤ人とは快く交易を行なっていたし、旧約聖書を信奉し
ている宗教だったからだ。そこで王は、これを実行したのである。ブラン王は正しかっ
た。王は、自国が侵攻を免かれ、国民がユダヤ教に改宗して、最も神聖なるユダヤの書
「タルムード」の教えを取り入れるのを見届けるはずだった。だが、王がこの世を去っ
た後、彼が夢にも思わなかった様々なことが起こったのである。

1711: 名無しさんAA:18/11/09 01:44
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 137 

 それが先の滅亡の歴史である。ユダヤ教に改宗したハザール王国の人々は、やがては
全世界のユダヤ人口の約1800万人の90%を占めるに至った。そして、実際にはユダヤ
人の血筋ではなくユダヤ教に改宗したアジア人種〔白色トルコ系遊牧民族〕であり、尚
かつヘブライ語とは全く異なるハザール王国の言語「イディッシュ」を使い続けている
にもかかわらず、自らをアシュケナージ・ユダヤ人(ドイツのユダヤ人)と称していた
。また、このハザール王国は1243年滅亡したが、その血筋からは、ブラン王よりはるか
に強大な力を持つ一人の男を祖先とする一族が生まれた。その男とは、これより1000年
あまり後にドイツで生まれ、ロスチャイルド王朝の父祖となったバウアーという人物で
ある。この一族が嘘と陰謀で世界中の富を奪い、そうして蓄えた莫大な資産をもとに、
資金提供を行なうとともに、世界の貨幣供給量を陰で操り、さらにまた世界から富を吸
い上げることになろうなど、ブラン王は知る由もなかった。ましてや、ハザールの民が
当然の権利としてパレスチナに祖国を築くことを要求し、1948年の建国以来、アシュケ
ナージ・ユダヤ人を歴代の首相に据えさせるとは思いも寄らなかっただろう。アシュケ
ナージ・ユダヤ人の真の祖国は、そこから1300キロほど離れたハザールだというのに。
そして、自らの民が「悪魔の会堂」(サタンのシナゴーグ) という 聖書の予言を実現す
るとは夢にも思っていなかったはずだった。こうしてクリミヤ半島域はこの後追われた
ユダヤ人達の農奴の生活から、抜け出す闘争が始まるのである。1993年、テルアビブ大
学の教授の言語学者ポール・ウェクスラーは、イディッシュ語がスラブ系言語に起源を
持ち、後にドイツ語の語彙を取り入れたものであることを示し、東欧のアシュケナジム
はユダヤ教に改宗したスラブ系およびトルコ系民族に、ごくわずかの中東系ユダヤ人が
合流したものであるとする事を発表した。イディッシュ語スラブ系説によれば、イディ
ッシュ語はライン川地方に起源をもち、変形したドイツ語を基礎に、スラブ諸語、ヘブ
ライ語、アラム語、ロマンス諸語からの借用語を交えたものとされた。この説は12世
紀以前に、ユダヤ人との接触やキリスト教化への反発を背景に ユダヤ教に改宗したス
ラヴ人がアシュケナジムの主体となったと説明しており、ハザール起源説と言うより、
スラヴ起源説の色がある。

1712: 名無しさんAA:18/11/09 01:45
< 小日本とアローンの志士 > よくも悪くもユダヤが世界の中心だった 138 

このイディッシュ語スラブ系説が正しいとするなら、カザール王国がユダヤ教に改宗し
た時に、その周辺にいたスラブ人も影響を受けてユダヤ教に改宗したのではないだろう
か。その後、カザール王国がモンゴル帝国に滅ぼされた時に、トルコ系のカザール人た
ちはユダヤ教徒のスラブ人とともにポーランドに逃げ込んで、そこでスラブ人たちが中
心となってドイツ語の語彙を取り入れながら イディッシュ文化を開花させたことにな
る。この説は合理的かつ画期的ではないだろうか。この説明は、なぜロシア人(スラブ
人)の中にユダヤ教徒が多いのかを説明できる有力な説だった。こうした移動を考える
ならば、ドイツ人こそがフン族であり、ヒットラーはチンギスカーンの生まれ変わりと
いう事ににもなりかねない。ユダヤ人の過越祭(ペサハ)は、かの有名なモーセによる
「エジプト脱出事件」(紀元前1290年)にルーツを持っているが、同じく、日本の
年越しも鳥居もこの大事件にルーツを持っているといわれている。モーセは、かたくな
な心を持つエジプト王ファラオにヘブライ奴隷集団の脱出を認めさせるため、一種の魔
術競争をしかけたのであるが、エジプト脱出前日に「殺戮の兵」がエジプト全土に襲い
かかって来た。その時、モーセはヘブライ人たちに「殺戮の兵」の害に合わないために
と、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせ、「殺戮の兵」が静かに通り過ぎるまで
に、家の中で待つように指示したのであるが、これこそが鳥居のルーツであり、年越し
のまつりのルーツである。とされる。「殺戮の兵」や「殺戮の天使」は暴徒であり体制
の兵でもある。神社につきものの「鳥居(とりい)」は、外国人のみならず日本人自身
にも説明がつかない代物とされる。しかし、ユダヤ人が見れば即座に理解できる。なぜ
ならば、「鳥居」の形は古代ヘブライの建物(玄関口)とそっくりの構造をしているし
、赤い色をしていることにはしっかりとした宗教的根拠があるためである。と説明され
過越祭(ペサハ)はユダヤ教でいう新年の祭りで、ユダヤの祭日のうちで最古、かつ最
大のものである。その日は、日本の年越しと同じように、家族で寝ないで夜を明かす。
更に過越祭の日だけは普段と食べるものが違っていて、いつもはふっくらとしたパンを
食べるのであるが、この日に限って「種なしのパン(マッツォ)」を食べる。この種な
しパンは日本でいう「餅(モチ)」に当たる。しかも、ユダヤ人は丸く平べったい種な
しパンを祭壇の両脇に重ねて供えるのだが、まさにこれは日本の「鏡もち」以外のなに
ものでもない。また、過越祭は全部で7日間と規定されており、これも日本の正月の期
間と全く同じである。と説明される


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