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テレビマスコミは悪の神髄
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200: 01/19 09:25
  プラネットクラック、クライシス、                   05

 まさしく、そのソ連のロシア人の赤化の南下作戦を食い止めていたのが日本だった訳
だが、それが雪崩のごとく破られたのが第二次世界大戦の敗戦時だった。そもそも有史
以前から日本が止めていた無茶苦茶な蛮族夷狄の攻撃を食い止めて来たのが日本の歴史
である。朝鮮半島と九州或いはシベリア極東と日本列島は、イギリスフランスが太平洋
を挟んでアメリカと親密であるように、或いはイタリアギリシャがエジプトと歴史を紡
いで来たように、まるで湖を介して生活する原住民のように交易や漁をして平和裏に、
生活して来ていたのである。しかし、ある日ある時ある場面では、山から降りてきた者
に襲われて生活の糧を失った。それは丁度、中国がビルマのラジャイン州にガスパイプ
ラインを引くために、大勢のロヒンギャを殺し立ち退かせる様な事だった。あるいは、
山を越えインドに攻め入る為に国境通路の国のチベットで大虐殺が行われた様に、石油
掘削にウイグル人が数千万人が拘束され思想や言語・文化の再教育がなされたように、
この中華フン族の都は、覇権の悪臭をまき散らして来た。その度に大和民族は朝鮮半島
を追われ、台湾を追われ、九州を追われた。白水江の戦い、北支の乱、伊都への襲来、
元寇ロシア暴漢・・・と日本の歴史の中に時々現れる攻防の歴史はそれだけ逃げてきた
人々の混乱がそのまま日本の混乱だった事を物語る。其の度に日本人は食生活を豊かに
してきた。恐らくは味噌醤油も刺身や塩やワサビや天婦羅や餅は、そうして食べれない
事の不幸から救う為の保存食として生活の知恵が進んできたものだろう。今でこそ日本
食が美味いと言われるが、戦後のビフテキの兵士は「見ろよ、肉を食えない奴らが魚の
生を食ってるぜ。奴ら火も灯せないんだぜ。」と笑われたものだった。日本の満州国の
先進性は目を見張るもので、満州に押し入ったソ連兵は何でもかんでも母国に持ち去っ
た。国民党軍も本来味方であったはずの共産党軍に追われ、南下するソ連と北上して来
る解放軍に挟まれた。総統は日本軍領だった台湾に逃げ込み、多くの兵士は置き去られ
死んでいった。満州を取って喜んだ毛沢東も国の経営はできない男だった。ソ連とは、
工業資材の国外輸送を許して満州の土地を取ったが、途端に工業製品も農業生産も消え
た。こうして大粛清や文化大革命が必要になって、執拗に市民裁判と公衆公開処刑が、
容赦なく20年間行われた。米国は支那人を日本人と同じに人の好い同じ文化の黄色人
と捉えていた。朝鮮人も同じだった。しかし見方が変わるのが李承晩の親日家大虐殺の
事件からだ。朝鮮上陸を果たした5つの連隊は、李承晩が言う侵略者たちの町とは全く
違い、すっかり治安の行き届いた議会政治を行う朝鮮国に驚いた。急遽進駐軍は一隊の
ごく少数を駐留させ、残りを日本や沖縄に返させた。ところが直後には治安のよかった
朝鮮半島も日本も朝鮮人の凶行に襲われて、再三再四暴徒鎮圧に駆け出す。捕えれば、
ほとんどは朝鮮人で、「我々は戦勝国、連合国の一員だ。日本人を殺して何が悪い。」
開き直る始末で、再三GHQは不法行為中止や勧告の命令を出す羽目になり、とうとう
釜山や済州島で大量虐殺と見せしめの磔が発見された。これに怒ったのが後に金正日に
名を変えた男だった。公然と対李承晩を掲げてロシアに救いを求めた。ロシアは中国と
同じに資材機材を自由に持ち帰る事を条件に北朝鮮独立を支援した。こうして豊洲ダム
など4つの発電所の発電機はソ連軍によって持ち去れ、多くの機材はソ連に行った。又
ソ連に渡ったものに、田中角栄が帰国の際に叩き売りした理研の、ウラン遠心分離機も
あったとされる。それによって急速に核開発が可能になった。そうした物資は既に米国
にいたソ連人スパイからもたらされてたからだ。米国にロシア人やドイツ人のスパイが
多いのは理由がある。大陸横断鉄道の終着駅が舞鶴や下関や大湊港だったからだ。第一
次大戦までここを通過して戦争避難民は横浜から米国に渡って行ったのだった。それで
も、このロシア系なりドイツ系のユダヤ人なり共産化思想の子孫は日本に敵対した。愛
情も通じなかったのである。これに心を痛めたのが初代国連総長の新渡戸稲造である。
彼はクリスチャンであるが、ほんとに信者になるまでには、いろいろと疑問を生じて、
なかなか入信することが出来なかった程、思考の重い人だったらしい。
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