[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄

熱血高話
12/20頁 (193件)
114: 03/19 14:06
 柳川 銭紋  110

 建徳2年・応安4年(1371)になると、南朝側の征西府は、室町幕府が派遣した
今川貞世(了俊)を使い隼人族日向、豊前などと入念に提携を組み これに敗れて少弐氏
が大宰府を回復した。文中2年・応安6年(1373)10月に大友親世と菊池武朝が肥後で
戦い、大友軍勢の蒲池久憲は田尻鑑安ら筑後諸将と竹井(高田町)に陣を構えたが、戦
いは菊池氏の勝利で終わる。元中9年明徳3年(1392)南北朝の合一がなって菊池
しが奉じていた南朝の「大塔の宮家」は柳川の柳の磯の宮に閉居の生活となった。天文
17年(1548)田尻親種(ちかたね)が筑後守護の大友義鑑(よしあき)から山門
郡の鷹尾(大和町)に250町の知行地を与えられると、矢部川河畔に新しく鷹尾城を
築き、これに移った。旧田尻城(高田町)には、一族の田尻左京を入れて城番とした。
田尻親種の妹は蒲池城主の蒲池鑑盛に嫁ぎ、姉は大木城主の大木統光に嫁ぎ3家は義兄
弟にあたる。天文19年(1550)、蒲池鑑盛、同鑑広は田尻鑑種、星野鑑乗らとと
もに大友勢に属し、西牟田氏や肥後の菊池義武は大友の従属下から離反し、筑後は緊張
状態となったが、豊後勢が進出してきたことで西牟田氏は降伏し、菊池義武も殺害され
事件は落着した。天文20年(1551)九州進出を目論んでいた防府(ほうふ山口)
の大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反により亡くなると、少弐氏が佐嘉城を包囲龍造寺隆信
は一時、家臣たちによって肥前を追われ、肥前から逃げてきて助けを求めた。これに対
して蒲池鑑盛は2年近くも一木村に住まわせ、3百石をあてがい保護した。蒲池鑑盛は
仁愛の徳にあふれる武将であったのだ。3度の挙兵に、めげずに行く竜造寺に兵をつけ
送りだしている。2年後の1553年、龍造寺隆信は佐賀城を奪還し、主筋の少弐氏を
滅ぼした。こうして本格的に柳川城を本城に改築し、比翼鶴の秦氏の財源を頼った様だ
。蒲池物語では、蒲池氏は嵯峨源氏の流れを汲み、鎌倉時代には筑後国の三瀦〜柳川周
辺を代々治める地頭職で、室町幕府が始まった頃、蒲池家にはお姫様しかおらず女地頭
として頑張っていた。当主の蒲池武久が南北朝の戦いで亡くなって女地頭であるお姫様
はこのままでは家が廃れてしまう。と思い悩み神仏にすがる毎日をおくっていました。
ある夜、不思議な夢を見て高良山に参拝します。宇都宮久憲は下野国の宇都宮氏の流れ
を汲む人物で祖父貞久の代に九州に下向し瀬高の辺りを治めていました。同じ頃、この
久憲も不思議な夢を見て高良山へ参拝し、偶然二人が出会ってお互いに夢のお告げの話
をした所、明神様の加護に違いないと、不思議な縁で結ばれる事となりました。それで
この久憲が婿養子として蒲池の家を継いでくれたので蒲池家は滅ばずに家を残す事が出
来ました。という話が蒲池物語に記されている。実はカゴメ紋は六芒星(ろくぼうせい
、りくぼうせい)であるが、この鶏の籠に隠れて朝の曙声で捕まった事で、後に、今の
大善寺の橋で捕まった兄と共に殺された。この事で二ノ宮信徒所謂沖の端人は決して鶏
は食べない。としている。又代々この玉満橋の橋裏にはその伝説を記載して取りつけた
とされる。兄の方は「とうりゃんせ」の歌があり、この2つは蒲池氏悲話とされる。
[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧

名前:
Eメール:
コメント:

sage
IDを表示
画像を投稿(たぬピク)
現在地を晒す