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熱血高話
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115: 03/19 14:13
 柳川 銭紋  112

 永禄2年(1559)16代目の蒲池鑑盛は、筑後守護の大友氏の幕下にあり、独立
した戦国大名ではない。だが、山門郡、上妻郡、三潴郡など、数郡を支配して事実上、
戦国大名に等しい勢力であった。この年に柳川城を改築拡張を行ない、蒲池氏の本城と
した。柳川城の別名の舞鶴城と称し、家紋の左三巴のほか比翼鶴の家紋も使用していた
。興味深いのは、二ノ宮氏も祖先を蒲池氏で比翼鶴の家紋を使用して、戦国時代に筑後
十五城の筆頭として柳川を治めていた武将としている事だ。鎌倉幕府以降、筑後国の、
守護職は大友氏。大友氏が守護する筑後国を実質的に治めた15の国人領主を筑後十五
城と呼んだが、実は15城ではない。この呼び名は間違いで筑後15旗と呼ぶべきで、
これは15国人衆の筆頭家老の意味である。城そのものは100城くらいあった筈だ。
下蒲池氏・上蒲池氏・問註所氏・星野氏・黒木氏・黒木河崎氏・草野氏・丹波氏・高橋
氏・三原氏・西牟田氏・田尻氏・五条氏・溝口氏・三池氏を国人城主の地位にある。と
決めたのだ。これは従来の菊池氏の行っていた支配形態をそのまま踏襲したものだった
。そもそも戦国武将と言えども、本当の臣下の者は3割程度であり、他の7割は地域に
住していた、先住有力者であった。この先住の15の領主の下でも同じに下に家老など
は地元に城主となっていた。ちなみに鶴紋といえば日本航空の社章として有名な「鶴丸
」が一般的だが 、鶴の姿勢によって呼び方が変化する。ちなみに 飛んでいる様のもの
を「舞鶴」といい、上向きのものを「昇鶴」、下向きのものを「降鶴」という。起立し
た状態で一羽の場合は「一羽鶴」、二羽であれば「二羽鶴」といい 左右向かいあって
いるものを「対鶴」という。「対鶴」の場合、一羽は嘴を開き、もう一羽は嘴を閉じた
阿吽形を示すのが決まりであったがそれだけとも言えない。他にも菱形の「菱鶴」、嘴
を咬みあった「咬合鶴」など、図柄のバリエーションはまことに多彩である。清和源氏
の頼親流の石川氏、同じく義家流の森氏らが「鶴」紋を用いている。南部氏のほかに高
井左衛門が「松に鶴」としている。鶴紋や鶴の字は日本人様式の様に見られるが、実は
古代朝鮮皇子の家紋とされる。但し日本の家紋の様な鶴紋ではない。南部氏は清和源氏
武田氏の分かれで、甲斐国南巨摩郡南部邑より興ったとされる。すなわち新羅三郎義光
の五世の孫にあたる加賀美次郎遠光の三男光行をもって祖とする。と言われている。光
行は父遠光とともに鎌倉幕府の創業に尽して、幕府が成立すると源頼朝の側近として仕
え、文治五年(1189)の奥州征伐に従軍し、その功績によって糠部五郡を賜わったとい
う。南部氏の家紋は、「対い鶴に九曜」として知られる。本来は、南部光行の画像にも
見られるように武田氏族らしく「割菱紋」であったと言う。もともと鶴は飛来鳥である
北方民族で言う、八田烏=カササギ=勝ち烏で土属種ではあるが、鶴は巧妙な「片破鶴
紋」なる写真がでていて 千鳥紋や雀紋とは一線を画したデザインである。又鷹の紋と
鷲の紋の違いも良く知られていないし隼紋も鱗紋と間違えられやすいようだ。

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