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熱血高話
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120: 04/16 02:59
 柳川 銭紋  117

 立花守(たちばなまもり)は、守紋のひとつ。立花氏の定紋であり、柳川守との別称
もある。有名な戦国武将では九州きっての勇将と名高い立花宗茂が使用していた家紋と
されるが、実は宗茂死後に使われた紋である。細長い筒をクロスさせた図形を中央にお
き、そのまわりに銀杏の葉のような飾りがあしらわれた紋。この一風変わった紋は立花
家の定紋(公式の家紋)として用いられる祇園守紋です。祇園守紋は京都八坂神社の守
り札をあらわしたものとされています。中央の二本の筒が守り札で、銀杏の葉のような
飾りは、守り札に結ばれた緒がひらりと広がる様をあらわしているのでしょう。中心に
緒の結び目があらわされているのが特徴ですが、この結び目は形式化されて巴文のよう
な形にあらわされることもある。基本は京都の八坂神社の護符の筒守を象ったものだが
。祇園神崇拝に基づく紋章。戦国期以後は、禁教令で家紋が使えなくなったキリシタン
たちが、天主を天王に仮託して、この紋を用いた為に素盞雄神社は、頭の右に穴を置き
剣の刀身を現している。飯津佐和乃神社などは、波を現し簡素紋として中心を三つ巴紋
をあしらう事もある。加積神社は実は稲穂だったとされたが飯津佐和乃神社と一緒にな
ってしまっている。小石神社も実は素盞雄を祀っている。従って後に他と区別して剣を
中央に現したと思われる。ところがその理由は小石神社は江戸時代後期に赤い御霊石を
勝手に祀ったのが始まりで同じ紋章が飾れなかった事に起因する。この赤い御霊石は、
南橘村(現前橋市南橘町)の橘山にあった疫病にご利益があるという聖石である。当初
は八坂神社と言ったが、明治44年(1911年)神仏混合によって数社を合併し小石
神社となった。昭和46年(1971年)当地に遷座している。遷座前は大酉祭が行わ
れていた。現在では熊野神社で行われているという。ちなみに、ご神体の「赤い石」は
意外と大きく、色は黒っぽく溶岩のような石で非常に重いという。元々は小石だったが
大きく育って重くなったという伝説がある。社殿前には縁結び石がある。この石に触れ
ると素晴らしい出会いやご縁があるといわれる。見づらいが、石の両側から手を入れら
れるようになっており、中でつなぐとより一層結ばれるという類だ。この石についてい
た説明文には「素敵な出会いやご縁が訪れるかも?」「より一層結ばれるかも?」と、
と、最後に「かも」や「?」がついている何ともふがいない神様で予防線を張ている。
実は当初の立花氏は中結祇園流れ守と言う変わった紋を使っていた。しかし再封して、
矢部川の流れを変える大工事が完成してから広田の神主の意見で紋を変えた。細長い筒
をクロスさせた図形を中央におき、そのまわりに銀杏の葉のような飾りがあしらわれた
紋である。これには理由があったが、とりあえあずは護国報寿を願ったのである。この
筒の神文の巻物とされる。それが柳川にもたらされたのはキリスタンと僧兵の協力から
であり、「秘密の呪文を誦ずしますと、たちまちその雲気の中に、朦朧とした二尊の金
甲神」が、勇ましく金剛杵(こんごうしょ)をふりかざしながら現われるという、一種
のランプの魔神の様な、「艮の金神」(うしとらのこんじん)を蒲船津から細工町に移
したのである。この「艮の金神」とは、日本に古くから伝わる陰陽道の神で「金神」と
は“祟り神”のことで、また「艮」(うしとら)とは東北の意味で、もっとも恐れられ
る神だった。
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