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熱血高話
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121: 04/16 03:09
 柳川 銭紋  117

この一風変わった紋は立花家の定紋(公式の家紋)として用いられる柳川祇園守紋とさ
れた。祇園守紋は京都八坂神社の守り札をあらわし、中央の二本の筒が守り札で、銀杏
の葉のような飾りは、守り札に結ばれた緒がひらりと広がる様をあらわしている。中心
に緒の結び目があらわされているのが特徴ですが、この結び目は形式化されて巴文のよ
うな形にあらわされることもある『旧柳川藩志』によれば祇園守紋の由来は藩祖宗茂が
夢の中で祇園神のお告げを受け、「扇子の上に祇園守を載せたる様」を家紋としたこと
が初めとされます。この伝承の真偽のほどは定かではありませんが、立花家で初めのう
ちに用いられていた祇園守紋はご定紋とされる今の形とは異なるものだった。このこと
は、宗茂や鑑虎といった江戸時代初期の藩主所用の道具から確認できる。宗茂の肖像画
や鑑虎の具足にあらわされた3種の祇園守紋はくずし祇園守紋とされ、初期の用例であ
るとされる。その形はどこか絵画的で、まだ家紋として類型化していない印象を受ける
ほどだ。これらの紋は立花家の定紋に対してくずし祇園守紋と呼ばれているが正式には
いまの祇園守を45度傾けて、旗の中や扇子の中の祇園守紋として使っていた。おそら
く発生したばかりの祇園守紋であったのだろう。実は他に立花家で用いられる祇園守紋
は、くずし祇園守紋3種、定紋、扇祇園守紋、札祇園守紋の合計6種がある。大名家で
は複数の家紋を持つことは珍しいことではなく、立花家でも時代と共に家紋のヴァリエ
ーションはかなりあったと考えられる。複数の祇園守紋が散らさされた調度は華やかで
、見るものの目を楽しませませる程だ。もともと祇園守でなく、なびき白旗扇に祇園守
であった理由である。立花氏の仕えた大友宗麟はキリシタン大名であり、強制的に宗茂
も少なからず洗礼を受けたかもしれない。一方の池田氏はキリシタンとして知られた、
摂津池田氏の一族といい、摂津池田氏は「花形十字紋」を旗印に用いたことが知られて
いる。加えて、摂津から出たキリシタン大名中川清秀の子孫で豊後竹田藩に封じられた
中川氏は、抱き柏紋とともに中川車あるいは轡崩しと呼ばれる家紋を用いている。同紋
は、別名中川久留守紋といわれるように十字架を象ったものであった。実は中山校区で
の人頭に中川氏が来ているが、これは久留米のキリシタンが追われたのを引き取った事
であったと言われ、これが実は宗像からの松石なにがしの夢のお告げで矢部川の流れを
変える大工事をし大人形祭を作った所以である。と伝えられる。中川家はもともと摂津
の海賊である。中川氏の祖とされる清深は、頼光の後胤になる。鎌倉幕府方として戦い
、建武年間より摂津国豊島郡中川村に住し、中川を家号としたが、荒木氏と共に楠正行
と共にやってきている。新田氏祖の義重、足利氏祖の義康を出し、また義家の裔・頼朝
が鎌倉幕府初代将軍となるなどして、嫡流となった多田源氏、清和源氏頼光の流れであ
る。矢部川改良には、ここに宮地嶽神社がでてくる。宮地嶽神社略記によれば、宮地嶽
神社縁起で、柳川地方の信者一同相計って宮地嶽神社本社に御分霊を懇願し生命をかけ
るほどの熱意が実つて、慶応二年三月待ちに待つた御社殿が柳川の地に造営されました
お陰で当社は第一分霊社となりまして宮地嶽大神を祀る神社は宗像本宮と柳川だけとい
う由緒の深いお宮でございます。私どもの開運をお譲り下さる御神徳は幾千代までも極
みないことでありましょう。と書いている。御祭神を勝村大神=藤之高麿・息長足比売
命=神功皇后・勝頼大神=藤之助麿右三神を「宮地嶽三柱の大神」と申し上げ奉祀して
あります。としている。実は松石とはこの勝頼大神=藤之助麿右を家系とした宗像大社
の創宮氏の流れとなっている。

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