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熱血高話
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 柳川 銭紋  119

 魏としては過剰な優遇をしても、憂いを断っておくのが安心だった。こうして倭国に
親魏倭王の称号を与えたのである。北と東の憂いがなくなったので、呉を警戒しつつも
侵攻を続ける蜀の対戦に集中できた。こうして「親魏倭王」の外交となった。親魏倭王
を与えられた卑弥呼は、魏の後ろ盾を得た筈だ。このことで倭国内はもとより、対立す
る狗奴国に対する牽制にもなった。親魏倭王を与えられて9年。狗奴国との対立の中で
、卑弥呼は死去し、倭国の王として、壱与(台与)が即位している。卑弥呼が死去した
とされる249年 には、今度は中国では司馬懿のクーデターが起こり、実質的に傀儡にな
ってしまう。親魏倭王の称号は卑弥呼に与えられ、壱与に引き継がれているかどうかは
残されていない。この時の遣隋使や遣唐使は大きく航路を変えている。変遷がわかるの
が遣唐使一行の中で、「訳語(おさ)」という役職の変化だ。読み方は「やくご」では
なく「おさ」です。通訳の仕事である。もともと日本には、古墳時代あたりから渡来人
がやってきて定住し帰化し、彼らが通訳として外交に貢献している。しかし、時代が下
ると、大陸の方に変化があり、覇権国の言葉が国そのものが変化していったため、日本
にそのものが、対応に追われた。これまでの定住し渡来人系の人々は、その役割をこな
せなくなっていったのだ。そのため渡来人の末裔から今の学僧に代わっていったのだろ
う。こうして遣隋使・遣唐使の経験者が務めるようになった。また航路も地図を見れば
、国内を大阪湾〜瀬戸内海〜博多湾まで船で進み、そこから方向が幾つもかわったのだ
。遣唐使が始まった頃は、壱岐・対馬経由で朝鮮半島の西海岸沿いを進み、渤海湾から
山東半島に向かうルートをとっていた。一番上の北向きラインの「北路(630〜665)」
である。しかし、663年の 白村江の戦い以降、このルートの新羅との国交が途絶えた。
ここを通れなくなってしまった。こうして新たに九州南端から種子島〜屋久島〜奄美大
島〜徳之島〜沖縄〜久米島〜石垣島〜東シナ海を渡り、揚子江を目指すルートがとられ
る。島周りライン「南島路(702〜752)」である。このルートで唐側知られ、鑑真和尚
がこの航路で来日した。しかし鑑真が来日まで六回もかかっている。つまりかなりに、
天候や荒波のもまれこのルートでは、大きな病気や怪我に見舞われた人が少なからずい
た。それでも日本は中国渡航の要求があり、航路を探した。福岡県〜佐賀県〜長崎県と
進み、五島列島付近から東シナ海を横断して揚子江岸へ、という「大洋南路 (773-838)
」である。これが採用されるようになったが、これは日本の各国王や豪族とのやり取り
も必要となった。それでも遣唐使が命がけだったことは歴史上知れる。往路・復路を問
わず難破し、諸々の苦難に遭った。空海と最澄が渡航した時4隻中2隻が難破してる。

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