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熱血高話
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124: 04/16 03:20
 柳川 銭紋  120

 途中の船酔いや病気が船にも蔓延した。重病になれば、唐に置き去りにされることも
あった。当時の状況や他の人達も命がけで、「そうせざるを得なかった実情」があった
。有名なのは阿倍仲麻呂の話では、現地に渡った後、詩人・李白と友達になった。天才
的な頭脳の持ち主で、遣唐使の目的の、「唐の制度・文物を導入するため」に多くの唐
の仕組みを持ち込んでいる。この中で、一定の時期までは外交上の駆け引きも行われて
いる。唐で遣唐使の一団が正月を迎えた式典に、新羅やチベットなどと遣唐使らの、ど
のような席次になるか、という件で揉めているのもそうした事が出来た状況があったの
だろう。次第に政治上の役割は薄れていき、再び学生や僧侶の勉強が重んじられるよう
になり、もっと実利的に、貿易における交渉のウエイトも高まっていきました。日本が
平安時代に入った頃は、唐も日本も社会的情勢が変わり、遣唐使そのもののの重要性も
薄れ正式に廃止された。寛平六年(894年)の事だ。そもそも 平安時代になってからの
遣唐使は延暦二十三年(804年)と承和五年(838年)の2回しか行っておらず、約60年
も中断されていた。その点だけでも「もう遣唐使いらない」という情勢が見える。唐に
「安史の乱(755〜763年・楊貴妃殺害)」の後から目に見えて衰えて、公的な関係を保
つ意義が薄れていた。安史の乱が終わってからの遣唐使で大陸に行って帰ってきた人は
、仏教でお馴染みの最澄・空海や、三筆の一人である橘逸勢(はやなり)などがいる。
彼らは少なからず朝廷との関わりがありましたし、私的な付き合いの場で、直に見た唐
の有様を話すこともあったと言える。それでも、唐や新羅の商人と日本との間で民間の
貿易は行われていましたので、わざわざ国から使節を送る意味もなくなったのである。
この遣唐使に、菅原道真は「危険を冒す遣唐使派遣の意義なし。お金もかかりやめるが
よいと思う」(意訳)と奏上し、これが受け入れられて遣唐使が停止されたのである。
この間取り入れられた文化にお茶を味わう文化がある。「喫茶」の習慣は、中国の唐王
朝(618〜907年)で広まり8世紀頃には、最古となるお茶の専門書「茶経」も記されて
いる。唐以前の時代には、お茶の持つ苦味を緩和させるため、生姜や紫蘇(しそ)など
の香味を入れて飲むのが主流だった。しかし「茶経」では「お茶の葉の美味しさを楽し
む事」が主張され広まり、茶葉だけのお茶が主流になった。この喫茶習慣は唐の習慣の
一つとして、遣唐使を通じて日本へ伝わった。最古の史料 では、弘仁六年(815年)に
嵯峨天皇が近江へ行幸した際、お寺でお茶を出されて「旨い。」と大喜びしたことが、
記録されている。近畿圏に茶の栽培を始めさせたとか。しかしこのお茶は煎茶や抹茶で
はなく、団茶でした。団茶とは、一度粉状にした茶葉を整形し、麹を植え付けて発酵さ
せたもの言わば紅茶に近い。まずは平戸・博多・栂尾・鎌倉などで茶の栽培ができて、
その後鎌倉時代になって宇治のお茶が出来た。こうして従来の団茶に加え、抹茶が飲ま
れるようになっていきました。南宋の禅僧の喫茶の風潮が僧社会に流行したからだ。
ところが実はこの瀬高清水寺は古くからあり、この空海と最澄も祈願して鷹尾神社から
大牟田の唐船に乗ったとされる伝説がある。大牟田と唐まで不定期船が船出していた。
というのである。

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