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熱血高話
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127: 04/16 03:38
 柳川 銭紋  123

 つまり天皇に水沼県主猿大海(みぬまのさるおおみ)は、「女神有します。名を八女
津媛と日す」と説明したと言う事だ。又別の、雄略天皇が来た時、身狭青(むさの あお
:日本古代の官吏・側近・豪族。この外交官の東漢氏(倭漢氏:やまとのあやうじ)配下
の渡来人(帰化人)系の人物達)をつれて来た。彼らは、わざわざ鷹を呉地方から連れて
来たが筑紫では犬に食われて死んでしまい。水沼君は直ぐにおののき、鴻十隻と養鳥人
とを献りて、罪を贖うた。ここで天皇は許した。とされる。鴻(こう)とは大きな鳥で
、十隻とはそれを扱う船だ。養鳥人とは鵜飼いの人をさす。つまり鳥飼いを差し出した
のだ。八女の鴻の池(こうのいけ)はその伝統的な池だった。この物語は筑後でも多く
語り継がれて来ている。実はこの時降り立ったのは福岡では無い。実は恐らくは長洲当
たりに着いただろう。と言われている。彼らの鷹は道案内と食糧供給の為だった。その
為、大牟田吉野の近くを行幸し吉野とは、天皇が付けた名だと言われる。更に鷹が殺さ
れたのは八女であり、その代わりに食糧供給したのは、鳥飼氏だったとされる。だが、
この鳥飼氏も、鳥が飲み込んだ魚を取りだし焼いていたのが解り天皇は怒って殺されて
しまう。それが、鳥飼と言う地名になったと言われている。これが八女の鴻池伝説だ。
私は、水沼がそのまま三瀦の呼び名になったとは思わない。み・つま=三の妻で、この
宗像三神の前形がこの地にあって、三っつの国が各地の豪族を持っていて広大だった。
と思う。そして菊池族からこう呼ばれたのではないか。と思っている。三潴町の高三瀦
に本拠を構えた氏族は、ご先祖様を弓頭神社に祀っている。この神社の故事によれば、
水沼別(みぬまわけ)の始祖、国乳別(くにちわけ)皇子を主祭神とするといい、成務
天皇紀で「吾が国造(くにのみやつこ)を任命する時には必ず楯矛を授けて証とする。
」とあって、第12代景行天皇の皇子、国乳別皇子が「古式にのっとり、弓矢楯矛を頂
き下向し、高三瀦の地に在所を定めて、久しく筑紫地方を治められた。」と書かれた。
とここの由来をするものとしている。高三瀦は水沼の君累代の政治の地で、古代行政と
文化の中心として繁栄した所である。と言う古伝説には「神功皇后韓攻撃の時、弓大将
だったために、弓頭大明神と称えられた。」と言い伝えられた為に弓頭神社となった。
という。国乳別皇子のお墓は烏帽子塚(弓頭神社御廟塚ともいう)と称し、本社の西北
3町(約300m)ばかりの所にある。明治6年6月、郷社に定められる。水沼別と言
うと筑紫の君磐井のことを『先代旧事本紀』に、物部の阿遅古(アジコ)の連は筑紫の
ミヌマの君の祖なり。とあり筑紫の君磐井は 玉垂命の子孫としている。「高良玉垂宮
神秘書」ではヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズの尊は住吉大明神であり、明星天子の
垂迹である。(垂迹とは、菩薩が人々を救済するために仮の姿をとって現れること)と
ここで 一挙に嘘になる。つまり垂迹などというのは鎌倉以降の話だからだ。私には、
塚本家と言う縁戚がある。だがこの塚本家と言うのは、筑後川の戦いで古墳の守役だっ
たのが逃げてきて筑後に収まったとされる。田中吉正時代にも更に追われこの地に来た
というのだ。
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