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熱血高話
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129: 04/16 10:46
 柳川 銭紋  125

 蘇民将来という人物は、様々ある蘇民将来伝説のいずれの中でも、スサノオノミコト
もしくは、牛頭天王より、「茅の輪を飾り、蘇民将来の子孫の家ですと書いたお札を付
けていれば厄災や禍を除くことができる」というお言葉をもらいそれを伝統にした。そ
してその言葉の通りに実践したことによって蘇民将来の家は長く繁栄をしたとされる。
箱崎は神宮皇后の朝鮮征伐で勝って我が子の遺体を香木の香椎宮で病死した仲哀天皇を
葬りその後祀りの御棺を流す船を作った所として箱崎の名がついた。しかし箱崎に元宮
は筑穂町の大分八幡宮(だいぶはちまんぐう)であるとされる。仲哀天皇は第四子の、
応神天皇(おうじんてんのう)を神宮皇后との中で九州で産んだとされる。この応神天
皇を祀って神宮皇后と共に奈良に送り届けたのが武内宿禰(たけのうちすくね)とされ
る。まず八幡宮のいわれだがこれは朝鮮征伐時に紅白の長い帯旗によって、戦い勝った
事に起因する。志賀の浦八幡宮は今は志賀海神社となりの創建は明らかではない。古く
は志賀島北部の勝馬に「表津宮」「仲津宮」「沖津宮」の三社が建てられ、それぞれが
「表津綿津見神」「仲津綿津見神」「底津綿津見神」が祀られて今の宗像大社の祀りに
なっている。二〜四世紀の間になって表津宮を勝山の麓である現在の場所に遷座し、併
せて仲津綿津見神、表津綿津見神が奉祀されたと伝えられています。綿津見三神を祖神
とする阿曇族が代々奉斎してきました。平城天皇時代の大同元年(八〇六年)に阿曇神に
神封八戸が寄進され、清和天皇の貞観元年(八五九年)に従五位上の神階が授けられた。
南北朝の頃には衰微しましたが、大内持世が再興し、さらに豊臣秀吉が50石を寄進し
ています。小早川隆景、黒田長政なども崇敬している。この事でこの旗船の帰還から、
神宮皇后=大帯姫(おおたらしひめ)とも称されたとされる。筥崎宮の元宮の大分八幡
宮(だいぶはちまんぐう)の社伝によれば、この神社がある場所は神功皇后が三韓征伐
の帰途に一時逗留した地であるという事から。、奈良時代の神亀3年(726年)に移設創
建されという。『筥崎宮縁起』(石清水八幡宮記録)によれば、平安時代の延喜21年に
(921年)箱崎浜(現福岡市東区箱崎)への遷座の託宣があって、延長元年(923年)に
遷座したのが筥崎宮の始まりで、宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』にも、
筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮
へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていた。創建当時には社殿は
現在地より後方の丘陵上にあったが、戦国時代に戦乱のため焼失。天正5年(1577年)
に秋月種実が現在地に再建した。明治5年(1872年)郷社に列し、平成に大修理が行な
われている。この蘇民将来がイスラエルでモーゼの伝説出エジプト記に全く同じとされ
茅野輪くぐりはモーセが地下神殿の洞窟に流れる川から流された記録と同じとされ、さ
らにこの五芒星(ごぼうせい)の5つの角を持つ星マークの晴明紋が昔の久留米紋とさ
れた着物のデザインで初期の玉垂れ宮の社寺紋である事はかなり異様な博多の歴史でも
ある。


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