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熱血高話
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131: 04/16 10:58
 柳川 銭紋  127

『播磨国風土記』では、天日槍について次のような地名起源説話が記されている。揖保
郡揖保里粒丘条では、客神(外来神)の天日槍命が、韓の国から海を渡って宇頭川(揖
保川・林田川の合流点付近の川辺に着き、当地の長たる葦原志挙乎命(あしはらのしこ
おのみこと)に宿所としての土地を求めると、志挙は海中に宿ることのみを許した。こ
れを受けて天日槍命は剣で海をかき回し、出来た島に宿った。志挙はその霊力に畏れを
なし、天日槍命よりも先に国を抑えるべく北上し、粒丘に至って食事を取った。その時
に口から飯粒が落ちたため、「粒丘(いいぼおか)」と称されたという。また川音村は
天日槍命が村に泊まって「川の音がとても高い」と言ったので「川音村(かわとのむら
)」と称されるという。葦原志許乎命と天日槍命の2神が谷を奪い合った「奪谷(うば
いだに)」と称され、天日槍命が「この村の高さは他の村に優っている」と言ったので
「高家(たかや)」と称され、葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、い
ななく馬がこの川で2神に遭遇したため「伊奈加川(いなかがわ)」と称される。原志
許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に
付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)
、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」の原と称されるという。一方、
天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のも
のとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた
)」と称される。伊和大神と天日桙命の2神が軍を起こして戦った際、大神の軍が集ま
って稲をつき、その糠が集まって丘となったが、その箕を落とした糠を墓といい、また
「城牟礼山(きむれやま)」というとする。『筑前国風土記』逸文では、足仲彦天皇(
仲哀天皇)による球磨・囎唹(くま・そお:総じて熊襲)征伐のための筑紫行幸の際、
怡土県主(いとのあがたぬし:福岡県糸島市付近の県主)らの祖の五十迹手(いとで)
が出迎え、五十迹手はその言の中で、自分を高麗国(朝鮮の総称か)の意呂山(不詳。
一説では蔚山)に天降った日桙の後裔としている。他にアメノヒボコの名はないが関連
伝承として、『摂津国風土記』逸文によると、応神天皇の時に新羅国の女神が夫のもと
を逃れ、筑紫国の「伊波比乃比売島」に住んだ(一説では豊後国ながら大分県の姫島)
。しかしこの島はまだ新羅から遠くないため男がやって来るだろうと、さらに摂津国の
比売島松原に移った。そしてその地名「比売島」は元の島の名を取ったことに由来する
。としている。また『豊前国風土記』逸文『宇佐宮託宣集』では、新羅国の神がやって
来て田河郡鹿春郷の付近に住み「鹿春の神(かわらのかみ)」と称されたとする伝承を
記す(福岡県田川郡香春町の香春神社に比定)。 こうした伝説をみると朝鮮半島は九州
王国に属し邪馬台国以降は鳥取兵庫あたりが、大和朝廷との境界線であったらしく、こ
こで取り合った場所が正に尼子氏の金鉱山であり播磨の国だった事になる。つまりは、
今の出雲大社は実は朝鮮を含めた九州族と関東を含めた大和族更に四国を含めた隼人族
の会談場所だった可能性が高く他に東北北陸部を含めたツングース族やアイヌが居た様
な可能性も高い。

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