[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄

熱血高話
14/20頁 (193件)
132: 04/16 11:07
 柳川 銭紋  128

 慶州新羅では当時は、天山をトウ利など言って匈奴語を話しています。因って、日本
の百済が中国へ通訳を兼ねて道案内します。なお天山は、九州佐賀に在る。こうなると
筑後三輪町の三輪神社伝承が気になる。大三輪(大物主、大巳貴、少彦那)を神功皇后
が祀る神社だ。倭国に大倭へ入るために助けを求めて来た。と言う話である。ここは、
大物主の威光の広矛や光鋒つまり、盾や鉾や剣を作り船を仕立て、都奪還に3〜4年を
擁し計画を練った。「弓頭神社(ゆみがしらじんじゃ)」は三潴町内最古の神社として
知られ、お祀(まつ)りしているのは水沼別(みぬまわけ=水別君(みぬまのきみ)=景
行天皇の子孫とされる筑紫地方の古代豪族)の始祖:国乳別皇子(くにちわけのみこ)
だ。冊封国家は中国王朝の臣下の儀礼として原則的に毎年の朝貢の義務を持って貿易を
していた。又冊封を受けていない国で朝貢自体は行うことが出来た為先の遣隋使や遣唐
使を派遣したとしている。しかし朝貢使(ちょうこうし)としては、渤海との貿易にお
いての影響や実益の方が非常に高かったと言えるはずだ。渤海の側が日本に対して渤海
使を派遣し渤海側は日本に対し「朝貢」をし、当時の日本の国力では、毎年の「朝貢」
に対して回賜を行う能力は無く、12年に1度に制限するに至るほどだった。つまり、
渤海使側は毎年来れる程力があり、日本側が答えられなかった。と言う訳である。遣隋
使(けんずいし)は、推古朝の時代、倭国が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢
使で、600年(推古8年)〜618年(推古26年)の18年間に5回以上ぐらいの派遣だが、
遣渤海使(けんぼっかいし)は、日本からの渤海へ728年から811年までの間に14回(う
ち1回は渤海経由の遣唐使)の使節が記録に残っている。遣唐使では、大阪の住吉大社
近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出て難波津を経て、
瀬戸内海を筑紫(九州)那大津へ向かい、そこから玄界灘に出る。としている。しかし
これは恐らく虚実であろう。と思う。玄界灘に日本側から出れば、海流によって朝鮮で
はなく、今のサハリンや良くて沿海州の沿岸のウラジオストック当たりだと考えられる
からだ。つまり、エンジンの無い当時の船では、遣唐使や遣隋使より渤海使の方が遥か
に簡単だったのである。渤海使は日本海側の山陰から北陸、東北にかけて、多くの津に
上陸した。前半は東北から西南の広い範囲に着岸したが、次第に西南の範囲になった。
それは航海術の発達や気候の知見によるものと思われる。前半では出羽国・佐渡国に計
八回も到着しているが、後半ではすべて能登国以西となっている。上陸後の渤海使は、
北陸道で平城京、平安京を目指したが、入京となるか現地より放還となるか、いずれに
しろ、来航した現地では「安置」すなわち一時的に滞在させ、食料や衣料など生活物資
が供給された。「安置」する場合は、史料には「便処」に「安置」したことがみえるが
、具体的には「郡家」(天長五年正月二日太政官符)のほか、国府または駅館などが利
用されたと思われる。松原の「客館」などに移送されたと思われる。こうなると大宰府
の鴻臚館(こうろかん)など後の時代に、外国の使節を接待した館が出来たが、筑紫(
福岡市)・大和宮都の外港である難波(大阪)・平安京(京都)の3ヶ所に置かれる前
に此処らに大きくあった可能性が強くある。山陰が大きく紀元300年頃中枢の外交場
としてあっても不思議ではない。海上を除いて一番台風が来ない所といえるからだ。つ
まり縄文時代東北もサハリンももっと温かかった気候とおもわれる。それが丸山遺跡で
は証明されている。隼人族の北上も実は温暖化による海の上昇だったかもしれない。

[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧

名前:
Eメール:
コメント:

sage
IDを表示
画像を投稿(たぬピク)
現在地を晒す