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熱血高話
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133: 04/16 11:29
 柳川 銭紋  129

 つまり、当時は民間交易として、公式の渤海使と並行して活発で、民間による交易も
敦賀津を経由して渤海とかなり多く行われていたと思われる。遣唐使交流とは別に大陸
の(唐・新羅)文物が流入していたが、これが渤海使が日本にもたらした物だった。貂や
大虫(虎)の毛皮など皮革製品や蜂蜜や人参など自然採集品が中心であったが文物書物
もあっただろう。また、日本からは絹・綿・糸など繊維製品、黄金・水銀・漆・海石榴
油(つばき油)・水精念珠(すいしょうねんじゅ)・檳榔(びんろう:椰子の実)の扇
などであった。遣隋使は倭の五王による南朝への奉献以来、約1世紀を経て再開された
。遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主で、朝鮮半島
での影響力維持の意図もあった。この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。
推古天皇のとき、聖徳太子が中国の隋へ派遣を目指した使節で、第1回は『隋書』には
、推古8 (600) 年,倭王の使者,隋にいたるとみえるが,日本側の記録は見当らない。
第2回 (『日本書紀』では第1回) は同15年,小野妹子を大使として派遣。国書には
「日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す」とあった。第3回は同16年に、
妹子が隋使裴世清らを伴って帰朝後,裴世清の帰国を送って再び渡隋、このとき学生の
高向玄理、学問僧旻、南淵請安、慧隠らを随行した。彼ら留学僧は帰朝後,大化改新に
貢献している。最後は同22年、犬上御田鍬を大使として派遣。のち遣唐使に引継がれ
た。この事を見れば、恐らく仏教伝来は朝鮮半島でなくロシア沿海州つまり渤海からの
ものと考えられる。つまり朝鮮半島はもともと仏教国では無かったのである。そこで、
改めて中国に渡って仏教の教えを取ろうと遣隋使を派遣したものと思われる。この頃の
古代人にとって、日本海は大きな湖で関門海峡などは大きな川の河口にしか思えなかっ
たのではあるまいか。不思議な事はまだある。阿倍仲麻呂伝説である。「三国相伝陰陽
管轄笙筧内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょ
くとしゅう」である。これは諸説はあるものの安倍晴明が編纂したと伝承される占いの
専門・実用書とされている。実際は晴明死後(成立年代は諸説ある)に作られたもので
ある。この『金烏玉兎集』の注釈書で江戸時代初期までに出版されたと推察されている
。本書は天竺で文殊菩薩が書いたもので、その後伯道上人に伝えられ、これが吉備真備
の手に渡り、その際吉備真備に助力した安部仲丸(遣唐使として唐に渡った後死して鬼
と化している)の子孫である晴明に伝えられたと記されている。渤海は698年におい
て(持統12)大陸に渤海(698年 - 926年)に国が成立した。と言う。高麗国(朝鮮)の遺民(
君主や王朝が滅びたのちも生き残って、遺風を伝えている民) 大祚栄により建国された
。つまりこの国は紀元3〜500年代には無かったのである。だが大陸では突厥(とっ
けつ)国があり6世紀に中央にテュルク系遊牧国家としていたようなのだ。ジュンガル
盆地からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ
山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したと言う。552年に 柔然から独
立した。大国の柔然の始祖は木骨閭といい、故にその王族は郁久閭(いくきゅうりょ)
氏と言い3世紀ごろには鮮卑拓跋部に従属していたが、鮮卑が華北へ移住した後のモン
ゴル高原で勢力を拡大し、5世紀初めの社崙の時代に高車を服属させてタリム盆地一帯
を支配し、拓跋部によって建てられた華北の北魏と対立している。つまり鮮卑柔然族や
社崙東胡族の送可汗使(そうかがんし)が、遣唐使の様に来ていたはずなのである。何
故なら仏教以前に拝火教が日本に伝えられているからだ。

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