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熱血高話
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136: 04/16 11:42
 柳川 銭紋  132

 楊国忠(ようこくちゅう)は本名はしょうとされ、蒲州永楽(山西省 丙城県) の人で、
中国の唐中期の権勢家とされる。楊貴妃の親戚として登用され、宰相李林甫と結んでは
財政的手腕を発揮したといわれる。国忠とはこの頃玄宗から与えられた名で侵攻する南
詔に対して7万の兵を率いて討伐にあたったが失敗している。天宝 11 (752) 年李林甫
の死で宰相となり,中央政界をその一派で占め、また安禄山の失脚を画策した。これが
安史の乱の誘因となった。乱が起ると,玄宗に従って四川に逃れる途中で楊貴妃ととも
に馬嵬坡で殺された。とされる。学問を好まずに酒とばくちを好み、行いが定まらず、
一族の嫌われ者であったが、30歳の時に蜀地方軍に入り、軍功を挙げて新都県尉に任命
された。任期が終わった後、困窮して蜀地方の富豪・鮮于仲通に資金を提供してもらっ
ていた。遠縁のおじ・楊玄淡(楊貴妃の父)の死後、その家に行き、娘の一人(楊貴妃
の姉・後の鯱国夫人)と私通していたという。楊貴妃が貴妃に冊された天宝4載(745年
)頃、剣南節度使の章仇兼瓊が長安にいる楊貴妃の一族と結ぼうとした。鮮于仲通の紹
介で彼と会い、容貌がすぐれて弁舌が立つため、気に入られて多くの財貨を与えられ、
長安への使いとなった。一族に会い、財貨をばらまいて、寡婦となっていた鯱国夫人の
家に入った。鯱国夫人を使って玄宗の機嫌をよく探知し、調子をうまく合わせたために
有能と判断され、度支員外郎に任命され、15以上の使職(唐代の財政などを扱う役職)
を兼ねた。だが、この頃から李林甫との対立が始まったという。安史の乱では、楊国忠
は剣南節度使を兼ねていたため、蜀地方への出奔を提言し、玄宗も同意した為、太子・
李亨、楊貴妃、楊一族、宦官の李輔国、高力士、韋見素、魏方進、陳玄礼らを連れ、密
かに西方へと出発している。「三国相伝陰陽管轄笙筧内伝金烏玉兎集(さんごくそうで
んいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう」にはまだ後の話がある。その
後阿倍仲麻呂は日本に帰り名を安倍晴明と与えられ、この効能に力比べとなった。帝の
呪術師蘆屋道満は、御前で晴明と術比べをして負ける。播磨の道摩法師(蘆屋道満)は
その後、晴明の弟子になる事になる。しかし、彼は晴明を追い落とそうと狙っていた。
そして晴明がある秘書(金烏玉兎集)を所有していることを知った。そこで道摩は晴明
の妻・梨子と不倫関係となり、その秘書がどこにあるかを聞き出し、自分と晴明の妻と
の仲がより親密になったと見計らった道摩は、彼女からその秘書が石の箱に入っている
ことを聞き出した。しかし、その開け方は妻にも分からないと言う。

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