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熱血高話
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138: 04/16 13:03
 柳川 銭紋  134

牛頭天王(ごずてんのう)は、京都・八坂神社の祭神で、平安時代に、疫病退治に魔神
的な霊力をもつとして信仰を集めた神である。神仏習合で牛頭天王はスサノオの垂迹(
すいじゃく:子孫)ということになっている。この八坂神社に伝わる『祇園牛頭天王縁
起(ぎおんごずてんのうえんぎ)』や「大和の安居院(あんごいん)」(我が国最初の
寺院である飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏をその地で守る寺)に伝わる『神道集』の中の『蘇
民将来伝説』が牛頭天王の由来を詳しく述べている。二十二社註式祇園社(群書類従)
ではこう記される。
「神社本縁記いわく。昔、北海に坐すの武塔神、南海の女に通いて、彼に出ますに、日
暮れたり。彼の所に将来二人ありき。兄は蘇民将来という。甚だ貧窮。弟は巨旦将来と
いう。富饒で屋舎一百ありき。ここに武塔神が宿る所を借りるに、惜しみて借さず。兄
の蘇民将来は借したてまつる。すなわち、粟柄を以って席となし、粟飯を以って饗たて
まつる。武塔出まして後に、年を経て八柱の子を率い還り来て、我、まさに奉りの報答
を為さんとす。曰く。汝に子孫ありや。蘇民答えていわく。己(おのれ)に子女、子と
婦と侍ると申す。宣わく。茅を以って輪を為し、腰上に着けよ。詔に随いて着く。即ち
、夜に、蘇民の女(むすめ)、子と婦と置きて、皆ことごとく殺し亡ぼしてき。時に詔
わく、吾は速須佐能神なり。後世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云いて茅の輪を
以って腰に着く人あれば、まさに免れむとすと詔き。」
備後国風土記逸文では
「備後国の風土記に曰く。疫隈の国社。昔、北海に坐しし武塔神、南海の神の女子をよ
ばいに出でいますに、日暮れぬ。彼の所に将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚だ貧窮。
弟の将来は豊饒で屋倉一百ありき。ここに、武塔神宿る所を借りるに、おしみて借さず
。兄の蘇民将来は借したてまつる。すなわち粟柄を以って座となし、粟飯等を以って饗
たてまつる。ここにおえて出で坐す。のちに、年を経て、八柱の子を率いて還り来て詔
りたまひしく、我は将来の報答を為す。汝の子孫、その家にありやと問いたまふ。蘇民
将来、答えて申ししく。己が女子、この婦と侍りと申す。すなわち詔りたまひしく。茅
の輪を以って腰の上に着けさしめよ。詔にしたがひて着けさしむ。すなわち、夜に蘇民
の女子一人を置きて、皆ことごとく殺し滅ぼしてき。すなわち、詔りたまひしく。吾は
速須佐雄能神なり。後の世に、疫気あれば、汝、蘇民将来の子孫といひて、茅の輪を以
って腰に付けるある人は将にのがれなむと詔たまひしき。」と書いている。
瀬高・八坂神社の祭神も同じだが、この八坂神社は何故か矢部川の水路を切り替えて、
かつての鬼の秦川の氾濫を押さえ、沖の端川として大田花宗川に分流する事に成功した
事による。それまで鷹の秦家とされていた港や蒲船津の海賊の船出所が無くなり正行が
陸上通行出来るまでになった。かつては入り組んだ江曲がりの場所が順次お堀となって
いったのだ。こうして「艮の金神(うしとらこんじん)」信仰は急速に絶たれ、細工町
を樽見の職人に明け渡した街づくりに入った。三橋町の地もこの時農地が随分増えたと
言われる。これは先の戦国時代に山口の大内氏の陶氏が発った時に毛利氏に入冠させて
戦場となったからだ。先の蒲池氏の縁戚の溝口氏や牟田口氏などの援軍もあったのが、
筑後吉富城も百丁花園城も白鳥(しらとり)城も正行の砦も蒲船津城も、毛利の猛攻に
落ちたのである。本家の大友氏が動かなかったからだ。と言うより大和が攻められてい
ないから裏交渉があったのかも知れない。これでは家老の田尻の謀反を気にして蒲池氏
は以降動けなくなった。この蒲池氏に対して大宰府対策で竜造寺氏支援を申し出ている
のである。
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