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熱血高話
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145: 04/16 18:26
 柳川 銭紋  140

 「弓頭神社(ゆみがしらじんじゃ)」では、三潴町内最古の神社として、お祀(まつ
)りしている。というのも水沼別(みぬまわけ=水別君(みぬまのきみ)=景行天皇の
子孫で、筑紫地方の古代豪族の始祖=国乳別皇子(くにちわけのみこ)として三潴町は
、鎌倉時代以前「水沼の県(みぬまのあがた)」と呼ばれていた。としてるからだ。当
時、この地方が沼地であったこと。その現(あらわ)れか、各地の遺跡からはたくさん
の貝類が出土していて、こちらの弓頭神社には同じく出土した古代の銅剣や石包丁・石
棺(せっかん)などが所蔵され、いずれも町の文化財に指定されている。明治6年には
郷社(ごうしゃ:昔の社の格付けのひとつ)にも選ばれた由緒(ゆいしょ)ある社と、
いう。久留米市には耳納連山の最西端、標高312メートル の高良山にある「高良大社」
の事だ。社殿は江戸時代初期の権現造りで、神社建築としては九州最大のものという。
この御社の造営は鎌倉時代までは、時の天皇自らが裁断して執り行われ、後に「筑後国
一の宮」と称えられた。江戸時代には歴代久留米藩主から崇敬され、現在の石垣大鳥居
(重要文化財)や社殿を寄進されるなどし、大正時代にはついに国幣大社に昇格してい
る。しかし、水沼(みぬま)と三瀦(みつま、みづま)や三妻は当時から何かしら発音が異
なっていたのではないかと思う。したがって、水沼君と水沼(三瀦)別と三妻などは、全
くの別人であり、奈良時代の発音の混乱が両氏を一緒くたにして(水沼、水間、美努麻
等と書く)しまったのではないだろうか。当然のことながら、海人族である水沼君では
筑後川の河口の近く(今の柳川市、大川市界隈)に住んでいたのであり、水沼別は高三瀦
に居を構えていた。水沼別は、景行天皇の後裔と言うことで その後も長らく筑後国の
統治者として君臨したようである。但し、成務天皇が任命した筑紫国の国造は筑紫君と
いう。大規模なものではないようだ。が、久留米市大善寺には御塚(おんつか)や権現
塚(ごんげんづか)の二つの古墳が残っている。通説は水沼別の古墳と解しているよう
である。ところで、水沼君だが、おそらく今の筑後川河口から長崎半島を経由して中国
・上海へ到る航路の開設者だったとも思われる。この航路は今はどうかわからないが、
第二次世界大戦終了までは上海航路として活用されていたらしい。真崎(まさき)氏の
伝説では、海路や航行に際しては昔からの船の舵人とされる。これがどういう意味か。
日本の歴史を紐解いてみると「魏志倭人伝」のみで以来この航路で正使が日中間を往来
したケースがほとんどないのである。記紀に出てくるものでは前述の「身狭村主青等」の
派遣譚くらいで。古代においては脇街道ならぬ脇航路に過ぎなかった航路ではないか。
さすれば、政府の庇護も薄いか若しくは九州王朝として突っぱねたか、水沼君一族が、
一時的に宗像へ居を移したか。それが、宗像三女神を宗像氏と水沼氏が祀る原因になっ
たか。宗像氏左座、水沼氏右座説もある。安曇の磯良丸神話では、水沼氏水間氏満妻氏
共に一族をが別れて玉垂れ宮の下で神宮皇后を迎え、安曇の磯良丸を案内したとされる。
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