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熱血高話
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149: 04/16 20:23
 柳川 銭紋  143

 新田氏が出てくる話しは平安末期の足利氏の南北朝時代である。荘園の境界争いがあ
り、水争いも頻繁に起きて、これまでの外国の情勢に遣唐使など派遣する余裕はない。
 それまで朝廷、武者所の田氏と 内の司宮氏があったらしい。つまり八田氏や武田氏
田中氏などの語源である。更に宇都宮氏の語源となる内裏の司の文官と武官の役職名で
ある。新田氏の新田義貞は当時尤もな軍官であったらしい。武者所頭人新田氏の始祖に
八田 知家(はった ともいえ)がいた。平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府
御家人。下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男である。系図などによる
異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局で初め朝家(読み同じ)と名
乗ったという記述もある。鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。小田氏の始祖であり小田
城の築城者と言う。元暦元年(1184年)八月の源範頼率いる平氏追討軍に従軍した。し
かし文治元年(1185年)4月、前年に源義経が無断任官で頼朝の怒りを買った際、知家
も右衛門尉に任官しており、頼朝から「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、怠け
馬が道草を食うようなものだ。」と小山朝政と共に罵倒されている。文治5年(1189年)
7月の奥州合戦では千葉常胤と共に東海道大将軍に任ぜられ、福島の浜通りから奥州の
藤原氏を追い詰めた。 建久4年(1193年)、曾我兄弟の仇討ちをきっかけに、従兄弟で
ある常陸大掾氏の多気義幹を北条時政と共に罠にはめて領地を没収し、自分の本拠地を
下野から常陸に移し守護に補任された。建久7年(1196年)には降伏して捕らえられた
平景清を自邸に預かっている。この八田氏の頃に新田氏は一文字の旗を掲げた。対して
これに縦棒を入れたのが川上氏である。川上氏は信長の縁戚であるが、体格が良く新羅
系の人物であったらしい。九州川上氏はおよそ山に起源をもつ。島津貞久の子川上大夫
判官頼久に始まる。頼久は建武三年(1335)、薩摩の軍勢を率いて新田義貞の拠る越前
敦賀城を攻め、文和元年(1352)に薩摩国加世田別府半分地頭職を与えられている。五
代兼久は薩摩国日置郡伊集院の地頭となった。十代昌久は、天文四年(1535)島津勝久
の行跡を諌め、自殺している。その孫久貞は同国薩摩郡中郷地頭、その子久運は頴娃郡
頴娃郷・大隅国肝属郡高山郷・日向国諸県郡飯野郷・薩摩国高城郡高城郷の地頭となっ
た。久運の子久尚は、延宝三(1675)年大隅国肝属郡百引郷地頭、宝永二年(1705)に
は日向国諸県郡吉田郷地頭となった。あとを継いだ久東も同六年同郷地頭、同七年に寺
社奉行となった。庶流の川上久朗は、忠良に仕えて永禄五年(1562)より家老を務め、
久朗は、日新斎忠良より島津家に無くてはならない武者といわれ、看経所に名をとどめ
られた四人のうちの一人であった。その時まだ十八歳だったという。島津家の領内統一
戦に従って転戦し、功をあげるが、永禄十一年(1568)に堂ヶ崎における菱刈軍との戦
いで、島津義弘を守って戦死した。凡そこの話では海外の体格であったと想像できる。
不思議なのは、その後楠正成は、元亨2年(1322年)に得宗・北条高時の命で摂津国の
要衝淀川河口に居する渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和の越智氏
を撃滅している事だ。そこに楠木正成の菊水の家紋の理由があるようだ。
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sage
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