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熱血高話
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150: 04/16 20:24
 柳川 銭紋  144

 楠木正成の自出は今も判然としない。だが正行父子は後醍醐天皇や南朝(吉野朝)方
して活躍している。当時多くの武将が、利害関係によって、昨日は北朝方、今日は南朝
方というように変化していたが、その有利な勢力に鞍替えするのが当たり前な時代の中
で、楠木一族はずっーと南朝方に付いていました。しかし、正行の跡を継いだ正成の三
男の楠木正儀の代には、南朝の勢力も弱くなり、何度か京を奪還しますが、その度に、
すぐに北朝方に追い出され嫌になっていた。やがて、和平の機運ももちあがり、打ち続
く戦乱に終止符を打つための画策が具体的に練られ始めました。正儀は南北朝の統一を
夢見ながら働いていましたが、南朝の後村上天皇が亡くなられて、強硬派(主戦派)の
長慶天皇が位にたつと、正儀は南朝に居ずらくなったのか、ついに北朝へ移ってしまう
。正儀の子供達が、父の行動に従わなかったことをみると、正儀の心苦しい心中が察せ
られるのだが。しかし、我々は後の時代から当時の時代を見ているので、このようにも
思うのですが、当時の南朝勢力や楠木一族から見れば、裏切り行為と見られても仕方が
なかった。しかし北朝側もそうそう戦っていた者が下野しても信用はない。その正儀も
再び南朝へ戻ってくるのですが、その最期は不明となっている。南北朝の合一をどこか
らか見ていたのかもしれません。しかし正儀は、どこにいても一族郎党や南朝のことを
思い、そのもっとも良い状態を常に考えていたと言われている。その後正儀の子、楠木
正勝らが篭る千早城も足利勢に落とされてしまうわけですが、城内には、ごく少数の人
数しかいなかったとされ、正勝らは雲隠れする。後の南朝時代の南北朝の合一での取り
決め事が履行されないために後亀山上皇は再び吉野へ行かれたのですが、その後の楠木
氏の足取りもほとんどわからなる。1399年の、応永の乱に楠木正勝や楠木正秀が幕府に
反旗を翻した大内義弘の援軍として現れたりと、足利政権の反対勢力側として楠木氏の
名(楠木正元・楠木光正・楠木兄弟・楠木雅樂助等)が出てくる。この頃から、さらに
朝敵(朝廷の敵)とされるのが強まった楠木氏は、河内・紀伊・大和・伊勢国や四国な
どで楠木の名前を変えて隠れ住んだものと思われている。楠木家の自出については、九
州の海運武将だったと思われる。嘉吉三年(1443)に禁闕の変(きんけつのへん)が、
長禄 元年〜2年(1457〜58)には長禄の変がおこりましたが、その時楠木を名乗る人物
が現われている。南朝方の一員として働きその後、室町時代後期に現れた楠木正虎の働
きで朝敵を免れ、伊勢楠氏の流れが形作られている。これらから出た楠正具は織田信長
の軍勢を悩まし、後には大坂本願寺で働いた武将がおり、また江戸時代には楠木流の軍
学(一例として、由井正雪の師とされる南木流の楠不伝)も流行りました。また河内の
楠木正長が讃岐国(香川県)の高松藩に出仕しました。また、大阪府には、名字が代々
「楠」だったと思われるお寺が多く残っております。定専坊さん、法正寺さん、瑞松寺
さん、定願寺さん、慈光寺さん、勝光寺さん…等々。また墨屋を開いた末裔や枚方宿の
「くらわんか舟」に携わった末裔など、身分や職業を変えて生き延びた楠木一族の末裔
だと名乗る家は今現在も少なくありません


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