[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄

熱血高話
16/20頁 (193件)
151: 04/16 20:24
 柳川 銭紋  145

 中世の楠木一族は、いったい、どのような身分の集団だったのかは、諸説あって定説
なしとされている。その諸説には、鎌倉幕府御家人(参考楠木四郎)、非御家人、商人
的武士団、水陸交通の要衝に居住し運搬輸送に従事した集団、悪党、荘園の荘官、など
があるとされる。能などの芸能を行う人々や賤民・散所の長、僧・山伏との結びつき、
諜報活動などいろんな側面を持った一族だったようです。楠木正成がおおいに活躍でき
た背景には、彼の出現以前からのしっかりとした基盤(地盤)があったことが想像でき
る。鎌倉幕府の有力御家人は、その土地の名称とその武士達の苗字(名字)が同じ場合
がほとんどであるようですが、楠木という地名は資料等では確認されていない。したが
って、幕府の命令で楠木一族が各地の討伐に出向いた記録があっても、その事だけでは
、鎌倉幕府の御家人だったとは断定できない。その1322年の幕命で北条高時は、『河内
の国の住人楠正成をして』という表現を用いていることから、正成は幕府の御家人とは
違うという説もあります。しかし、もし楠木という地名があったらどうなんでしょうか
。しかも河内に楠木という字をを分解したかもしれない。紀伊国の熊野辺りに、熊野木
+豫(木へんに豫)樟日命の6世孫である熊野木+豫樟富命の末裔に富彦という人物がい
ました。平安時代の弘仁年間(810年〜824年)、富彦は熊野で起こった乱を天皇の命を得
て平定し、その後、京へ上りました。その子孫達は熊野に戻らなかったのですが、富彦
の6世孫の楠正定は熊野へ帰りました。正定は、楠藪と呼ばれている所に住みましたの
で周辺の人々からは楠殿と呼ばれました。ひょっとしたら、この頃から「楠」という名
字を使用したのかもしれません。関東地方などの東国の多くの武士は住んでいる土地の
(名・みょう)、もしくは元々住んでいた土地(名・みょう)の呼び名を、一族の名字
(名前)として姓(源や平、藤原、橘など)の変わりの通字として用いたそうですが、
西国(西日本)では、土地の名称以外からも自分たちの名字として用いたそうですので
、楠氏の発祥の地というべく「くすのき」という名称の地(名)が存在しないのかもし
れない。つまり東国では木の名はないが、西国では土地よりは愛でる物の名を姓とした
。古くから「楠」という名称の土地が無いそうなので、西南日本に多く群生する「クス
ノキ」という木が楠氏の名字の由来なのかもしれません。ちなみに、熊野本宮や新宮大
社の南西方向には楠(くす)という地名(現・和歌山県の古座川町楠)が、三重県四日
市市楠町にも楠という場所が室町時代にはあったそうです。熊野に戻ってきた正定の末
裔たちは、熊野本宮や新宮の神官や社僧になっており、奈良を本拠地にもしていたよう
だ。
[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧

名前:
Eメール:
コメント:

sage
IDを表示
画像を投稿(たぬピク)
現在地を晒す