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熱血高話
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152: 04/16 20:24
 柳川 銭紋  146

 しかし、奈良も多分に出身地ではない。特徴として、楠木一族は水の神を祀る、建水
分神社を崇拝していました。同じく水系の美具久留御魂神社や恩智神社、元春日の枚岡
神社も崇拝していたと思われます。楠木一党の一つとされる恩地氏の拠点にある。この
恩智神社にも水分社という別名がありまして、さらにこの恩智神社は江戸時代終わりま
で奈良の春日大社の猿楽をこの神社が受け持っていました。ますます能と関係が深そう
なことがわかります。鎌倉時代末期、楠木一族は水運に深く従事した集団だったと思わ
れている記載は多い。用水路も押さえていたのではと推測されます。また河内の金剛寺
や観心寺、和泉の久米田寺との関係から、僧侶(当初は真言宗か、後は浄土真宗が多い
)や山伏や修験者らが使う山岳ルートも、卓越して知っていたので利用していただろう
。僧・文観との結びつきや、大覚寺統との関わりもかなりありそうである。この河内国
のすぐ近くにある二上山などから採れた辰砂(水銀がとれる)を、楠木一族が売り捌い
て生活資金にしていた一族とも言われている。ちなみに、砂鉄が採れた土地は土が赤か
ったそうですが、赤坂という地名はそれに由来していることが多い。旧大和川から分か
れる平野川、近くには奈良街道という交通の要衝に赤坂という村がありますがそのそば
には南木本村がある。だが正行に残る伝説では南北朝時代には、この二ッ河小学校の、
島町を磯の宮社に柳の宮廷を建て近くに殯宮を置き「もがりの丘」を作ったとされてい
る。殯宮は棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れる式祭典の場である
。殯宮は「もがりのみや」という名で天皇の大喪の礼に、また「ひんきゅう」という名
で皇后・皇太后・太皇太后の斂葬の儀までの間、皇居宮殿内に仮設される遺体安置所の
名として使用される。そうして、それを同時に楠木の姓が藤の名を与えて藤木の姓にな
ったとされている。こうして同行していた武人の楠木公の息子楠木正行は藤木正行とな
った。又恩智氏は越智氏に代わった。従って九州人からすれば、要衝淀川河口に居する
渡辺党を討ち、紀伊国安田庄司湯浅氏を殺害し、南大和の越智氏を撃滅している事は大
変な不思議となる。そこに楠木正成の菊水の家紋の理由があるようだ。実は足利氏と共
に南朝方を支えて、渡辺党も湯浅氏も越智氏もいたからである。勿論足利氏も反乱して
も朝廷になれないはずだったが渡辺党も湯浅氏も越智氏などは北朝成立の立役者だった
のだ。ここに義憤があったのだろう。となると九州に南朝を迎えていた足利氏は名を変
えて生き残る道を探る事になる。足利氏は阿志賀氏と変え、天皇家は大塔家に変わった
。目野家も木下家も実は昔は他に姓があったと思われている。野田家も基は山田家であ
ったし新谷家も新開として別れた。こうした一族二家の方式はかなり流行った。つまり
南北朝統一時代になっては氏素性はどうでもよく生き残る事が大事になった。冨丸藤丸
吉丸も吉富城が落ちて安富や富安と色々名乗っている。五郎丸氏も実は屋号であり本姓
ではない。ところがこの頃は戸籍謄本などなかったのだ。


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