[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄

熱血高話
16/20頁 (193件)
157: 08/31 19:29
  歴史の群像  06

 この話は映画にもなった。当然番組は中断され映画の放送で対処した。チュバックは
すぐに病院に運ばれたが、死亡した。29歳だった。ここで影の組織が蠢いていた。クリ
スティーン・チュバックはオハイオ州サミット郡ハドソン出身でマイアミ大学卒業であ
る。1966年から1967年までクリーブランドのテレビ局WVIZに入社、その後フロリダ
州セントピーターズバーグのテレビ局WTOGを経て、フロリダ州サラソータのテレビ
局WXTWーTVに勤務して地域の問題についてのトーク番組を持つに至っていた。こ
のTV局では、その後午前のニュース番組「サンコースト・ダイジェスト」のキャスタ
ーを務めるようになった。彼女は社会正義の強い人で政治腐敗の色々なゴシップを知る
ネットワークを持っていた。しかし富裕層に嫌われてTV局から左遷されてここにいた
。突然アメリカ社会には降ってわいたウォーターゲート事件が起こり、これを執拗に問
いつめて追いかけていたのが彼女だったのである。7月24日 - ウォーターゲート事件で
アメリカ最高裁は、ニクソン大統領と首席補佐官が事件対策を話しあう様子がおさめら
れた録音テープの引渡しを大統領側に命じる判決を出した。8月になると8日にウォー
ターゲート事件でニクソン米大統領辞任する事になった。初戦の1968年共和党予備選挙
はミシガン州のロムニー知事、ニューヨーク州のロックフェラー知事、カリフォルニア
州のロナルド・レーガン知事などと富裕層の支持争いで終始リードを保ち有利に進めて
共和党候補者となっていた。対する民主党は前アラバマ州知事で、人種隔離政策を支持
を掲げるジョージ・ウォレスが立候補し、北ベトナムへの無差別爆撃の継続を訴えてい
たカーチス・ルメイ空軍大将を副大統領候補に据え、ベトナム戦争における北ベトナム
に対しての強硬な政策実施を主張し、「偉大なアメリカ」「偉大な社会への計画」継承
を訴え、貧困の撲滅などの実現を主張していた。そこで対抗としてシカゴで行われた党
大会にでていた。しかし、ジョンソン大統領のベトナム政策に反対するデモ隊が押しか
け、リチャード・J・デイリー市長が動員したシカゴ市警察と衝突し、流血の事態とな
り六百人以上の逮捕者を出すなど大混乱に陥ったのだ。早い時期から選挙運動を開始し
ていた彼は、公民権運動やベトナム反戦運動が過激化したことに対して「法と秩序の回
復」を訴え、民主党のケネディ政権が始めてジョンソン政権で拡大の一途を辿っていた
ベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を主張し、「これを実現する秘密の方策がある」
と民主党対抗の共和党意見の代表者となっていた。これに、学生を中心とした過激な「
反戦運動」を嫌う多数の保守層が流れ込み、ニクソンの掲げた「法と秩序」のキャッチ
フレーズを支持した上、ジョンソン政権下で泥沼化していたベトナム戦争の早期撤退を
公約したことで、戦争終結を求める反戦志向の無党派の票までも獲得し。大統領になっ
ていたのである。ニクソン自身の外交政策は、カンボジアとチリにおいては政権転覆な
どクーデターを謀り、傀儡政権の樹立などの力を背景とした政策を行うとともに、ベト
ナム戦争からのアメリカ軍の全軍撤退と軍縮政策の推進、国際協調外交の推進など腹心
のキッシンジャーが奉ずるリアリズムを基調とした硬軟織り交ぜた政策を展開した政策
を行っていた。これに軍産複合体の多くが乗りかかっていた。大統領自身、1959年7月
の「アメリカ産業博覧会」の開会式に出席するために、ソビエト連邦の首都モスクワを
公式訪問するなど、当時のソ連のフルシチョフ政権下におけるいわゆる「雪融け」政策
者の一人だったのである。

[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧

名前:
Eメール:
コメント:

sage
IDを表示
画像を投稿(たぬピク)
現在地を晒す