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熱血高話
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159: 08/31 19:30
  歴史の群像  08   

 1988年に入ると、中国海軍はその実効支配地域をマラッカ海峡付近にまで拡大しよう
と蠢動し始めた。ソ連に廃船空母ポチョムキンを観覧客船にするとして購入し、アメリ
カからは、数多くの製鉄廃工場の利権回収をした。ラストベルトの工場購入にアメリカ
の工場の町は再開か解体作業員で少しは潤うと思っていたが、まったく違っていて、彼
らは20人程度でモーテルに住み込み突貫工事で解体し、回収し大型船に回収し積み込
み本国に送ったのである。日本でも中古機械は、盗品と共にほとんど買い漁り、漁船な
どは漁業作業員が事故を起こし、死んでも操業できれば田舎から労働者はやってくると
船団は増え続けさらに日本の遠洋漁業は廃退つづけ多くは沿岸漁業者のみになったのだ
。そうした中1988年3月14日、ベトナム人にとって忘れることができない出来事が起
きる。ベトナム海軍は測量を目的にジョセフ環礁とも呼ばれる海域に兵士を派遣してい
たが、それに対して中国はこの他国の領土他国の海域で測量を阻止する目的として軍艦
を緊急に派遣し派兵した。結果急襲し民間のベトナム測量士を銃撃した。補佐の多くの
ベトナム兵が死亡し、一部は捕虜にもなった。ベトナムは「同島にいた兵士は戦闘員で
はない。又兵士であっても測量を行っていただけであり、武器などは携帯していなかっ
た。」と改めて主張している。中国はそんな兵士に対して急襲し重戦車砲攻撃を加えた
。この攻撃でベトナム兵64名が死亡し、その後、遺体の回収に向かった艦船は島に近
づくことすらできなかった。改めて外交官を通じ解放を求めたが、艦船の遺体回収を、
中国側が拒否したために、10日間にらみ合ったがベトナム側は遺体を収容することが
できなかった。ベトナムはこれを人道上きわめて重大な問題であるとして表明している
。こうした事件を起こしながら、中国政府高官も報道官も、共産党中国はいかなる国も
侵略しないし侵略させない平和を求める民主国家だ。といけしゃしゃと厚顔無恥に設楽
顔でいう。毛は、1951年末に汚職・浪費・官僚主義に反対し「三反運動」を、1952年初
から贈賄・脱税・国家資材の横領と手抜き・材料のごまかし・経済情報の窃盗に反対し
「五反運動」を展開している。しかし朝鮮戦争で息子が死んで以来変節を遂げる。当初
国家主席に就任で毛沢東は、反対勢力を粛清していたが。1956年のソ連共産党第一書記
ニキータ・フルシチョフのスターリン批判に共感し、中国共産党に対する党外の積極的
批判を歓迎する「百花斉放百家争鳴」運動を行っている。しかし、多くの知識人たちに
共産党独裁化批判にさらされて、再び弾圧する反右派闘争を開始し、全国で50万人以上
を粛清失脚させ投獄し、。こうして70年日中友好に走り1988年経済復興して再び周辺
諸国強硬弾圧に力を入れポルポト政権などを支援している。ポルポトはクメール王宮の
末弟で留学中共産党組織を動かすスターリンに魅了されカンボジア共産党を組織してい
た。ベトナム人にはこの武力勢力とも戦う事が強いられた。中国人はフィリピンでも同
じように機関銃で住民殺しをやった。ベトナム人はこの事件をよく知っている。しかし
、この事件が広く世界に知られることはなかった。わが国でもその詳細を知る人は殆ど
いなかった。ベトナム政府も、そしてベトナムの人々も、この事件にひどく憤慨し発生
当初に、ベトナム政府は中国に強く抗議したものの、しかし、強い抗議の声を上げつつ
も端的に言えば、巨大中国との外交悪化にためらっていた。1990年代から中国は急速に
経済成長して貿易活動や支援もあった。中国の力はベトナムを圧倒し経済力は更に巨大
になった。軍事面だけでなく経済の面でもベトナムは中国と対立することが難しい。そ
こで人々は、政府に頼らずこの記憶を留めておくために、全額募金でこの記念館を設置
したのである

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