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熱血高話
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  歴史の群像  09  

、中華人民共和国で、建国宣言には「新民主主義社会」の建設を掲げ支配地域には「新
土地革命」を全国の未実施地域で行った。、法律では従来の「土地革命」とは異なり、
「富農経済の保護」を打ち出し、「穏健で秩序ある」改革をめざし、建国後すぐには、
周恩来などの指導で、農業生産高は一気に増大し、同時期の工業は、農業以上に生産の
伸長した。この為毛沢東は、1951年末には汚職・浪費・官僚主義に反対し「三反運動」
を、1952年初から贈賄・脱税・国家資材の横領と手抜き・材料のごまかし・経済情報の
窃盗に反対する「五反運動」を展開している。しかし朝鮮戦争で息子が死んで以来変節
を遂げる。当初国家主席に就任で毛沢東は、反対勢力を粛清していたが。1956年のソ連
共産党第一書記ニキータ・フルシチョフのスターリン批判に共感し、中国共産党に対す
る党外の積極的批判を歓迎する「百花斉放百家争鳴」運動を行っている。しかし、多く
の知識人の共産党独裁化批判にさらされ再び弾圧する反右派闘争を開始し、全国で50万
人以上を粛清失脚させ投獄した。こうして極端な不作となった。70年日中友好に走り
1988年経済復興して再び周辺諸国強硬弾圧に力を入れていた。中華人民共和国になって
大躍進政策を施行し、農業と工業の大増産政策を打ち立てた。反対派を始末し、合作社
・人民公社・大食堂など国民の財産を全て取り上げて、共有化する共産主義政策を推進
し、毛沢東は。「数年間で核武装や経済的にアメリカ合衆国やイギリスを15年以内に追
い越す」と宣言した。しかし、市場原理を無視して、一部の農工業生産指標のみにおい
て3年間で英米を追い越すほどのノルマを人民に課し、ずさんな管理の元でこれらの農
工業製品に特化し、大きな増産体制を指示し却って生産力低下をもたらし、従来の3割
以下となった。原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄法を奨励し全国の都市、農村で
展開され農機具が粗鉄の塊に変わった。また土法炉を建設するための主資材の耐火煉瓦
の供給は有名で信仰ある寺社の土壁や仏像からとられた。必然的に土法炉の火力や還元
剤に木炭が使用され、木炭を生産する目的で、全土で樹木の大規模な伐採が開始される
、当然全国の山は禿山となった。この粗鉄運動で1117万トン生産されたが鉄の内、6割
が全く使い物にならない粗悪品(銑鉄)だった。それでも増産計画に従って生産を続け
資源を大量に浪費する国となる。結果農民が大量に駆り出され、杜撰な農地解放は荒れ
果て、ノルマ達成の為農民の保有する鍋釜、農具まで供出され、地域農業や生活の基盤
は破壊されてしまった。 1958年には「除四害運動」を行われた。四害(伝染病媒介)
するとしてハエ、カ、ネズミと、農作物を食い荒らすスズメの大量捕獲作戦が展開され
た。しかし、スズメの駆除は、かえってハエ、カ、イナゴ、ウンカなどの害虫の大量発
生を招き、農業生産は大打撃を被った。伝統農法も科学的近代農法もまったく無視した
政策として密植・深耕運動が実行に移された。結果、農業は大きなダメージとなる。更
に、強硬に推進する為人民公社の設立など農村のコミューン化を推し進め生産意欲減退
に繋がった。1978年の生産責任制が導入されるまでシステムとなった。これらの手法は
効果的に、凄まじいまでの凶作を作った。人々は生んだ赤子まで食べると言う貧困にな
ったのである。1980年代の北京経済制度研究所報告書では、パンチェン・ラマの故郷で
ある青海省で、人口の45%に当たる、90万人が死亡し、四川省では900万人が死亡した。
と言う。飢饉について研究したジェスパー・ベッカーは、「中国のいかなる民族でも、
この飢饉によってチベット人ほどの苛酷な苦難に直面した人々はいない。」と指摘して
いる。

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