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熱血高話
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161: 08/31 19:34
 歴史の群像  10    

 この大躍進政策によるチベットの惨状については、パンチェン・ラマは周恩来首相に
改善を求めている。パンチェン・ラマ10世は、今のダライ・ラマの先代になる。チベッ
ト仏教では輪廻思想の下、子孫や血統では受け継がず神のお告げを話し、全国行脚で次
のラマの祭司大司教の赤ん坊を決定し入場させて帰依させる。しかしながら共産党中央
政府は独断で、指名する者を連れてきて強制した。これにバンチェン・ラマは抵抗して
文化大革命の際に紅衛兵に拘束された。1968年から1978年まで10年間投獄され、出獄後
も1982年まで北京で軟禁された。パンチェン・ラマ10世は1989年の演説で「チベットは
過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも、今や大きな代価を支払った。二度
と繰り返してはならない一つの過ちである」と自説を述べた。これは中共政府の用意し
た原稿を無視した演説であった。その発言後のわずか5日後、パンチェン・ラマ10世は
死去に至った。中華人民共和国政府は死因を心筋梗塞と発表したが、チベット亡命政府
や西側のチベット独立運動家などは暗殺説を主張している。これはチベット仏教のみに
行われた行為ではなかった。多くの多民族国家の独立民族は虐殺と強要が横行し現在に
至っている。しかしこの頃のチベットの惨状は凄まじく、多くの地域で民衆が餓死して
いる。地域によっては、民族が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い場所
がチベット周辺だった。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であったがし
かしこうした食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうで
ありチベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死
寸前であるこの村には強制的農法が何の根拠も指導された。そして餓死しあるいは非常
に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいったのだった。また、公共食堂で食事を義務
づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じ
った小麦が配給されるのみで、パンチェンラマは次のように書いている。この恐るべき
搾取と配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている
。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中でも、こん
な恐ろしい飢餓を想像することはなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれ
が数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く。(…中略…)チベットでは1959
年から1961年までの2年間に、牧畜と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧民は食べ
る穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送
することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァン
パ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった
カム地方でも1965年まで飢餓が続き、パンチェン・ラマが批判した惨状が継続していた
。他にもパンチェン・ラマはチベット民族の消滅を危惧して記述している。また当時の
映像はすべて英国記者が記録し、チベット仏教僧の焼身自殺、ラマ僧の闘争、中国軍の
無差別虐殺 僧侶の脳みそを笑って食べる中国軍などフィルムが残っていて、インター
ネットで覗く事が出来る。

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