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熱血高話
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166: 09/02 14:42
     歴史の群像  15    

 林彪の死後も、周恩来は実権を握ってはいたが1973年に友人のケ小平を復活させた。
五七幹部学校に入っていた知識人はその多くが都市に戻ってきたがしかし、文化大革命
はその後も継続され、周恩来らと四人組の間で激しい火花の散る権力闘争が行われた。
周恩来にしてみればこの四人組はどうしても負けられない相手でここに囚人解放があっ
たし。毛沢東は2つを派閥争いさせる事で主席の地位が安泰だったのである。1976年に
は、こうして文革派と実権派のあいだにあって両者を調停してきた周恩来が、同年1月8
日に死去した。周恩来を追悼する花輪が撤去されたことから四五天安門事件が発生し、
ケ小平が再び失脚するのだ。同年9月9日に毛沢東が死去した。ここで新首相の華国鋒は
、葉剣英、李先念、汪東興等の後押しを受け同年10月6日、四人組を逮捕した。この頃、
中国の経済破綻に華国鋒首相は援助要請に、日本人諜報員をしていた父を持つ江沢民を
日本に送っている。ここでの日本の援助は成功しても失敗しても、政治生命は絶たれる
運命であったといわれる。しかし華国鋒と田中訪問以来の友人となっていた中曽根は2
つ返事で了承し、丁重に江沢民をもてなした。この時江沢民は会談前後に靖国神社に参
っている。しかし成功の報を聞いた毛沢東は4人組に処断を探っていた。ここでスパイ
の靖国批判が登場し、中国側も日本の援助による抗日記念施設建設に江沢民を置いたが
ここで毛沢東の死で命拾いし4人組排除で華国鋒の右腕になった。翌1977年、失脚して
いたケ小平が復活し、中国共産党は第11回大会で、四人組粉砕をもって文化大革命は勝
利のうちに終結した、と宣言した。しかしここで江沢民の処断に大きな変化が生じてい
た。日本への経済支援が技術支援に変わっていたのである。日本は日中国交を田中角栄
が決めても、アメリカの日本叩きは続き、ロッキード事件で総合商社丸紅やらフィクサ
ーの児玉誉士夫や日航商事の小佐野健二などに司法の手がかかる。それでも土光の上司
の新日鉄の稲山嘉寛は、強引に中国への技術供与を進めたのだ。親日鉄の前身は官営の
八幡製鐵所である。戦前までトップは天下り「社長」で、戦後でも20年間で以下の4人
しか役職を務めていない。三鬼隆(1950年〜1952年)から渡辺義介(1952年〜1956年)
につなげ小島新一(1956年〜1962年)がなったが、会長へ人事異動し1962年に稲山嘉寛
が就任していた。前身の日鐡は戦後の解体の過程で、持ち株をすべて手放していた。こ
のため、八幡製鐵発足時に日鉄が継承したが、他社の株式は持たなかった。後継会社の
日鐡も「制限会社」に指定されていて、戦後復興の経営は厳しく他社の株式まで保有で
きない状態でいた。日鐡の制限会社の指定が解除された1951年(昭和26年)で八幡製鐵
はやっと製品の購買資本家や原料の取り引き需要社、関連事業の展開会社などに出資し
て、企業グループを形成していた。しかし、既に世界は鉄の供給過多に陥り安値競争の
中にあった。そこで人件費を削減し、品質向上さらに製品開発の為36部門の1800
工程の一連作業を、オートメーション化した新工場を君津に作ることを決めた。いまだ
戦後復興の余韻で経済需要がある景気の時にしかできない。そう思ってプロジェクトは
発進した。幸いにも成功し本格稼働したばかりの頃に、ケ小平が訪問していた。
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