[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄

熱血高話
17/20頁 (193件)
168: 09/02 14:47
     歴史の群像  17    

 君津のダイナミックオンライン製造のシステムは、君津オンライン・コントロール・
システム(KOCS)として実施された最新鋭であった。こうした方式は米国ホームステッ
ド製鉄所(モンバレー製鉄所)でもある程度実施されていたが、この大型の一貫製鉄所
での試みは初めてで、その後に1970年代に新設された他社の製鉄所、加古川製鉄所(神
戸製鋼所)、鹿島製鉄所(住友金属工業)、京浜製鉄所・扇島(日本鋼管)などでも、
行われていた。しかし国際需要バランスは崩れ、造船不況も訪れ、すでに各国に技術の
支援や粗鋼製鉄率を伸ばして、ロス削減指導を海外に出て指導して稼ぐほど、逼迫した
経営をしていた。のである。上海宝山製鉄所は、中国最大の工業都市であり消費地でも
ある。上海に初の臨海製鉄所として立ち上げることとなった時。稲村はこの地で中国人
や日本人が大勢意味のない戦争で戦ったし、無辜の農民や無知の兵士が国家の扇動の生
贄で死んでいった時のことを知る一人だった。上海宝山製鉄所の建設は中国の「改革・
開放」政策後の中核プロジェクトで推進された。78年2月に日中間で調印された「日中
長期貿易取り決め」の第1号で第一級のプロジェクトでもあった。「日中長期貿易取り
決め」の日本側の調印者は稲山嘉寛だった。稲山は中国の建国以来のこの最大の重工業
建設プロジェクトを、日中合体で推進した文字通りの中心となって動いた人物だった。
「大陸戦争の痛みを知る世代がいる時に」「欧米の優位主義の猛威が再びもたげる前に
」「絶対に成功させねばならない。」と言う強い決意だった。こうして新日鐵の君津、
大分、八幡製鉄所をモデルに最新鋭の設備が導入され、惜しげもなく中国で初の近代的
な工場管理システムが移植されたのである。第一期工事は日本側に任せて、最新技術を
吸収し、二期目から自前の技術(国産技術)と称してここで合作設計製造という形をと
った。ここでは日本の先端技術の供与をほぼ無償で受け、ODAなどによって中国側は
一銭も金を払うことなくプロジェクトを仕上げている。第7代新日鐵社長、第9代経団
連会長をした稲村の子飼いの今井敬はかつて、こう語った。「1998年に経団連会長にな
ってありがたかったのは、海外の要人に会えたことだ。米国大統領と英国女王以外は、
(殆どの国に)面談時間をもらえた。頻繁に訪れた中国では(反日教育を推進した元凶
の)江沢民国家主席、朱鎔基首相、胡錦濤国家主席、温家宝首相らに親しく接すること
ができた。」と喜んでいた。彼は今は反日や抗日でもきっと日本をわかってくれる。わ
かりあえる。と未来を固く信じていたのである。「中国を最初に訪れたのは1966年。62
年から始まったLT貿易に参加するためだった。当時、日中に国交はなかったが、62年
に国が保証をつける長期貿易の覚書を交わした。」LT貿易は廖承志、高碕達之助の両国
通商代表者名で68年から日中覚書貿易に改められた。日本や中国が互いに敵視政策をと
らないことなどの政治三原則と政経不可分の原則の順守の協定である。つまりこの時も
国際的条約の背定や自由民主主義の尊重と実行あるいは資本主義人権のルールの遵守を
約束しているのである。また約束されなければ工事者の国内入りや自由行動が保障され
なかったのだ。

[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧

名前:
Eメール:
コメント:

sage
IDを表示
画像を投稿(たぬピク)
現在地を晒す