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熱血高話
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170: 09/02 15:35
     歴史の群像  19    

 実はこのオイルショックは、兵士や武器こそ出回る事無く終わったが、日本での再度
の世界戦争だったのである。Tv界は簡単に高度成長期の混乱として掲げられるが、事
はそう単純なものではなかった。チェゲバラが日本訪問したのは、革命政権が成立した
直後の1959年7月である。キューバ革命の伝説的英雄、チェ・ゲバラは池田勇人通産相
(当時)と会見した後、予定になかった広島訪問を強く希望し、急きょ日程を変更して
、広島へ足を伸ばし1泊して慰霊碑に献花して、資料館や原爆病院を訪れた。そして、
「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか」と言い残したのだ
った。これには日本人も目を見張った。過去の戦争が頭によぎったのである。帰国後に
キューバの新聞に寄稿したチェ・ゲバラの記事は「痛ましいのは原爆が投下されて14
年たった今でも、今年でも後遺症で多くの人が亡くなっていることだ。」「資料館では
、胸が引き裂かれるような場面を見た。」と語って、今だ日本の中に戦争は終わってな
い思いを綴っている。当然ながらそのごこの「革命家」に関する本は爆発的に売れた。
小学生の頃の映画フィルムやTVでは中東戦争が写しだされたが、山間の戦争はアラー
の祈りの声で銃撃戦はピタリと止まり、一斉に兵士たちが集まりそれぞれにメッカに向
けて座って祈りを捧ぐ。これが戦争かというほど義勇軍の組織は信心深い民兵達だった
のだ。イスラエル周辺の中東地域では、第二次世界大戦後(1945年)から4回もの
戦争が起こっていた。イスラエルにはアメリカとイギリスからの、軍需品や資金の援助
を受けていたが元々この地に住んでいたアラブ人(パレスチナ人)は納得せず戦後にも
周辺の他のアラブ人系の国の人々を巻き込んで抵抗運動を続けていた。エジプト・サウ
ジアラビア・イラク・トランスヨルダン・シリア・レバノンなどに助けを借り、イスラ
エル(ユダヤ人)の執拗な挑発行為に戦争をしていた。それは数理的に白人種が減ると
ロシアから20万人の移民を取り入れても戦争継続とユダヤ教保護をしている状況であ
った。数的有利なアラブ系連合軍隊は常に装備がおとり、イスラエル(ユダヤ人)勝利
の戦争に終わっていた。この欧州の支援はスエズ運河の通航が、欧州の越冬の暖房を、
多くを石油タンカーに依存していたからだった。日本が東南アジア占領に日米開戦して
世界大戦になったように欧米は、この中東石油で中東戦争を仕掛けていたのである。こ
の中で、エジプトが「スエズ運河」の国有化宣言した。1973年の第四次中東戦争に
は、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)を組織し石油戦略を発動した。イスラエルに
味方をする国への石油禁輸と原産国の権利主張、原油価格の引き上げなどである。この
戦争はスエズ運河の権利以上に原産地の井油の精油所などの権利が奪われるに至った。
こうして、先進国が次々と経済的な大打撃を受け、石油危機(オイルショック)がおこ
る。しかも、間の悪い事にアメリカの双子の赤字は、石油をドル購買券として成り立っ
ていたので、ドルの固定相場制から変動相場制に変わるニクソン・ショックまでもが起
こったのである。こうして世界経済大混乱して日本危機が起こった。


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