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熱血高話
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177: 09/03 20:50 ID:IE
    歴史の群像     25

 こうしたスパイの歴史は古く、欧州の社会は進み過ぎていて、秘密結社とか諜報者と
か宣教師など言うのは、言葉では理解できても、まったく実情や生活がそこにあるとい
うのは、普通の日本人は全く空想すら解しない。しかし、海外の軍事法廷のあるところ
では、ドラマの様に動き働き、世界中の国家権力相手に事が動き、たまには歴史すらも
変える。日本では起こりえないものである。かつて戦国時代にも大名や将軍、あるいは
天皇にも忍者や衛兵はいた。しかし、大国のように忍者や衛兵がその頂点の座に座る様
な転覆は起こらない。明治政府でも江戸時代でも天皇を廃位させる事は充分できた。が
日本人はそれをしなかった。又するつもりも無かった。いやそれどころか朝鮮皇帝高宗
や中央アジアの馬賊の首領もあるいは中国のラストエンペラーの愛新覚羅皇帝もできる
だけ助け出し復権させようとした。また革新をせまった袁世凱や孫文やその他の将軍に
も援助を惜しまなかった。アジアの復興や自由の解放の意思も大きかったが、それ以上
に島国気質がそこにあったのだろう。と思う。今でこそ南洋でもデモや民族運動がある
が、インカ人やモンゴル人と同じよう渡ってきた外部の人間にはいずれ帰るか同化する
か知っていて、別に攻撃して滅ぼす者が居るなどとは予測していないからだろう。日本
で開国時に最初に来た黒船の大統領の親書や意向は老中達に伝えられた。しかし二回目
に来た時の会談内容は極秘であった。なのだが、実は水戸をはじめ多くの藩主の命によ
って忍者や間諜が派遣されていたと言われる。中でも水戸の斉昭には詳細にその契約の
内容まで伝わっていた。これが桜田門外の変が起こる原因となった。桜田門外の変で打
たれた。安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞
が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃して、大老の
井伊直弼を暗殺した事件が起こる。本来なら御庭番の服部家が護衛し守るべきものだっ
たが彼らは既に戦いつかれしていた。年表の流れからも分かるだろう。
  1853年 7月 8日(嘉永6年6月3日) - ペリー提督らの黒船、浦賀へ来航。
  1854年 3月31日(嘉永7年3月3日)- 難航した国内合意せず日米和親条約締結。
4月24日(嘉永7年3月27日)吉田松陰が黒船へ密航しようとし幕吏に捕えられる。12月
23日(嘉永7年11月4日)安政東海地震。ディアナ号が津波で遭難し次の日の地震で座礁
。明けて1855年安政に名を変えたが、黒船が締結したことで2月27日(安政元12月21日)
ロシアが来て、混乱するも幕府は約束通り日露和親条約を結ぶ。そして11月11日には、
(安政2年10月2日)本格的に安政の大地震が起こって天変地異は幕府の行いの悪さと、
批判が高まる。1856年にはイギリス、オランダがやって来て長崎から陸路行幸し京に拝
謁。こうして1月30日(安政2年12月23日)日蘭和親条約が結ばれ、3月19日(安政 3年
2月13日)蕃書調所九段坂下に設置した。蛮書調所( ばんしょしらべしょ)は、ペリー
来航で蘭学以上の洋学研究の必要性を痛感し幕府は、天文台蛮書和解御用掛を拡充し、
1855年(安政2年)「洋学所」を開設した。しかし、開設直後の安政の大地震で全壊焼
失しのち移転し開成所となるを開いた。つくづく運のない話である。
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