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熱血高話
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182: 09/03 20:54
    歴史の群像     30

 ここでは、こんな船に隠密や隠れて探る忍者なのどが乗れたか。という疑問がのこる
。恐らくグラバーも慎重に事を運んだだろうし、こうした要注意人物は彼らだけではな
く、とても多かっただろう。また全国に散らばる「草}といわれる何代も続いて住みつ
いて幕府に情報を与える百姓や商人や坊主であっても、その報告は恐らく敵方と思える
薩摩や鍋島など外様大名の手に乗る危険は避けたと思える。こうして江戸幕府はまずは
裏の草の根ネットワークが崩れ去ったと言える。下関戦争は、尊皇攘夷運動の京都公家
に対抗できず、孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、1863年 6月25日をもっての
攘夷実行を約束した事に端を発す。幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが、
長州藩は馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船への封鎖を下命され、砲撃を実施した
。何回か分けて激しい戦闘が行われ、砲撃されて4ヶ国連合が1864年の戦闘を馬関戦争
(ばかんせんそう)と呼び、その封鎖の砲撃の1863年の戦闘はその「原因となった事件
」として扱われることが多い。今では1863年のことを下関事件、1864年を四国艦隊下関
砲撃事件と呼んで区別している。この戦争後、長州藩は幕命に従ったのみと主張した為
、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負
うこととなった。しかし、馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまっ
た長州藩では、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極
的に導入し、軍備軍制を近代化する方策に変える。こうしてさらに徳川幕府は武装して
強くなる各藩に対して弱く権限が阻害されていった。更に同じ外国船と戦った意気込み
で、長州・薩摩は近い思想を持つに至り、そこに坂本龍馬や中岡慎太郎などが暗躍し、
仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩
との薩長同盟を締結して幕府を驚かし、共に倒幕への道を進むことになる。すでにフラ
ンスに乗っ取られ、負けてしまっている長州藩の戦争に、拡大化を恐れ、幕府は7月8日
、「国の方針が確定する前の外国船への砲撃は慎むよう」長州藩に通告した。16日には
中根一之允らを軍艦「朝陽丸」で派遣し、無断での外国船砲撃や小倉藩領侵入について
長州藩を詰問した。ところが、長州の奇兵隊員は、アメリカ軍との交戦で失った長州艦
の代用として「朝陽丸」の提供を要求し、8月9日には「朝陽丸」を拿捕して 8月20日に
は中根一之允ら乗り組員を暗殺してしまった朝陽丸事件を起こしていた。これらは、三
条実美ら攘夷派公卿の画策で、 8月13日にも孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征の詔
が下る(大和行幸)である。こうした蛮族退治の絶対訓令は日本各所に飛んだが、多く
は全く呼応していない。しかし大和国では天誅組が挙兵し(天誅組の変)京都の政局は
長州藩を支持する攘夷派が主導権を握っていたが、18日に薩摩藩と京都守護職の会津藩
がと共に孝明天皇の了承のもとクーデターを起こして、攘夷派公卿は失脚した。すでに
海峡の戦いの比べられないくらいの戦力は公けになっていたのである。こうして長州藩
も朝廷から排除された(八月十八日の政変)。天誅組も諸藩の討伐を受けて壊滅する。

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