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熱血高話
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    歴史の群像     31

 江戸時代末期(幕末)に長州藩は、薩摩藩にさかのぼる事2年も前の1863年に、長州
藩から清国経由でヨーロッパに留学派遣をしていた。派遣は主にロンドン大学ユニヴァ
ーシティ・カレッジなどに留学させている。こうして井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾
庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す言葉に長州五傑
(ちょうしゅうごけつ)と言う言葉が残っている。文久3年4月18日(1863年6月4日)、
井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命を受ける。4月28日(6月14日)に 洋行の
ため、井上は野村と共に京都を発ち、5月6日(6月21日)に江戸に到着した。薩摩が砲撃
に備え砲台から演習をしていた中の頃だ。1854年 3月31日の再度の黒船来航で洋学者達
は吉田松陰のみならず、海外の奇妙さの探検に飢えていたのである。しかし、残念なが
らその渡航費や滞在費は下手な藩では賄えないほどの高額で、又江戸幕府が認めない限
り密航で、見つかれば大きな代償があった時代だった。あくまでも密かに動く事で渡航
の相談だけでも多くの人員が必要だった。 5月7日(6月22日)、駐日イギリス総領事と
なったエイベル・ガウワーを訪ねて、洋行の志を述べ、周旋を依頼する。ガウワーから
は、船賃が700ドル(約400両)、1年間の滞在費を含めると1000両は必要と聞かされて
彼らは驚きと憤慨に浸っただろう。一千両は、イギリスのポンド金貨と同様の価値とし
ての金額でも大きい。しかしイギリス商人は舶来品として高価で買い付ける大名には、
容赦なく高値を吹っかけていた。先の薩摩の件では、英国は幕府に、生麦事件の賠償・
謝罪として10万ポンド・東禅寺事件1万ポンド計11万ポンド(44万ドル)を要求
し、薩摩藩に2万5千ポンド(10万ドル=6万33百両)と犯人の処刑を要求してい
る。薩摩が賠償しないので英国艦隊は薩摩藩汽船(天佑丸{英製}・白鳳丸{米製}・
青鷹丸{独製})を拿捕したがこのときの船の購入価格が30万ドルである。戦闘推移
が英国艦隊不利で拿捕船を焼いて戦いますが旗艦ユーリアラス号の艦橋が直撃され幹部
全員が死傷し艦隊は鹿児島を去ったのだが、つまり今の客船価格500億〜2000億
ぐらいだろう。仮に三千億円=三十万$=ポンドとすれば、一万円=1$と言うとんで
もでない為替の高値だったのだ。ちなみに薩摩藩の大久保利通は、この賠償金10万ド
ル6万3千両ほどを幕府から借出し支払い返済はされずじまいである。つまり10万X
一万倍=百億=6万両つまり10万円=6両程度で仮に5両としても5万両は100億
である。50人留学させれば軍艦が買える値段だから当然ではある。長州は江戸到着後
さらに2人(伊藤・遠藤)増え、5人分つまり5000両が必要になった。洋行にあたって
藩主の手許金から1人200両(井上・伊藤・山尾の3人で600両)を支給されたが当然、全
く足りなかった。そこで、伊豆倉商店の番頭佐藤貞次郎と相談し、麻布藩邸に銃砲購入
資金として確保していた1万両の準備金があったので、佐藤は「藩邸の代表者が保証す
るなら5000両を貸す」ということになり、藩邸の留守居役村田蔵六に、死を決しても、
その志を遂げたいと半ば脅迫的に承諾させ、5000両を確保することができた。という。
軍艦の一割を当面必要としたのである。たった5人の渡航がこうしたものだった。だが
いまでも自衛隊は、一機1億だの10億だの払って戦闘機を購入しているのだ。これは
明治から変わらない欧米流のデールであってトランプのみではないのである。

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