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熱血高話
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185: 09/03 23:19
    歴史の群像     33

 下関の、前後二回にわたる攘夷思想に基づく海外との武力衝突事件で敗れた長州藩は
、自国一国での国内攘夷が不可能であることを知り、以後はイギリスに接近して軍備の
増強に努め、倒幕運動をおし進めることになる。こうして倒幕の準備が更に加速した。
ここで日本人が考えたのは言うまでもなく自国の郷里でも藩でもなく日本国という島国
の存立である。まるで貧民が「蛍の光窓の雪」の歌のように海外の知恵や知識を学び取
る覚悟をしたのである。狭く海に囲まれた領土で生きる。決して中国の様に邪魔させな
い。と。ここで既に富国強兵と殖産興業との意思が作られていた事だ。そうして日本は
正に世界の冒険活劇のようなサクセスストーリーの舞台に入って行ってしまうのだった
。桜田門外の変の井伊直弼を暗殺したのは水戸藩とされるが、水戸藩からの脱藩者17
名の他薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃している。つまり大老井伊直弼を暗殺事件は
脱藩者を囲った者が仕掛けているのであり、それは水戸藩でなく薩摩藩だった。という
ことになる。かねてから一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は、西郷隆盛を京都に遣わして、
内勅降下運動を盛んにしていたが、藩兵を率いて抗議のため上洛することまで計画して
いたとされる。しかし、 7月16日、島津斉彬は死去し、勅許を得ないままの条約調印と
斉昭・春嶽の排斥は行き場のないまま、攘夷論の強い公家達に伝播し、孝明天皇の耳に
まで達して幕府の行いに対し憤慨していた。と言われる。ここに半蔵門達の死闘があっ
て半蔵門を守る住民や主人の手を大きく患っていたと言える。篤姫が嫁いで来た以上は
例え水戸や薩摩が幕府の敵であっても、縁戚となり普通の外様などと違い、情報収集の
みで敵対行為は家定や井伊直弼などの許可や認可が必要だった。しかしかの耳にはその
公家内の動きが重要で薩摩藩の個々の動きはわからなかったのだ。また、急先鋒の島津
斉彬を暗殺したのかもしれないが、それによって単体の島津の薩摩武士のタガが外れて
こうした暗殺襲撃に走ったのかもしれない。更に薩摩は長崎以外の隠れた外国船寄港地
で沖縄とも通じていた。ここには既に公式ではないものの海外公務人として公使や領事
に匹敵するものが既にいたかもしれない。少なくともペリー提督は、沖縄を国王として
扱い条約を交わしてから江戸に向かっていた事が知られている。我々はこの歴史の裏の
事情を簡単に見過ごしている。しかしこの状態はかつての対戦前の陸軍や海軍の動き、
あるいは現代の中国や韓国の建国になった動きと全く同じで、大きな力のタガや規制か
ら逃れた者の、こうした反撃は、例えば毛沢東であり李承晩でありタガを外した要因は
アメリカであり連合国であったのである。そしてこの江戸幕府の仕組みに似た国がある
。今のロシアである。共産党世界は江戸幕府を研究した訳でもないだろうが、政権と、
その独裁政権維持に諜報警察いわゆる密告受付の秘密警察を置く姿に収れんしたのであ
る。ところがまったくそっくりな組織でありながら中国もロシアも、日本のような血統
主義が置かれていない。逆に血統主義を存続させながらもその由緒無き伝統を伝えてい
るのが北朝鮮である。これをどう見てどう考えるべきだろうか。


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