[*]前 次[#] [0]戻 [4]履歴
[1]最新 [2]最初 ▼[3]コメント欄

熱血高話
19/20頁 (193件)
188: 09/03 23:29
    歴史の群像     36

 連合国間でも第二次世界大戦の戦後統治計画に、フランスのシャルル・ド・ゴールを
嫌っていたアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、「フランスはインドシナ
を植民地にしてから何か発展させたことがあったか。あの国は百年前よりひどくなって
いる。」とフランスのインドシナ植民地を批判し、インドシナ半島を信託統治構想をし
ていた。しかしながら、イギリスでは信託統治をしたらイギリス帝国の植民地が無くな
ると反対し、フランスの指導者となったド・ゴールは1945年 3月24日にインドシナ連邦
を構築して独立を許さず、フランス総督が統轄し、フランス連合に組み入れると声明を
発表し、植民地時代の復帰を求めたのだ。ところが戦争終結前にルーズベルトが死去し
アメリカ国務省は検討の上、あとを継いだトルーマンに「アメリカはフランスのインド
シナ復帰に反対すべきでない。」と、反共産主義の立場から進言し、同極東担当官他も
も完全に同一見解でアメリカ国務省は「アメリカはフランスのインドシナ主権を承認す
る」との統一見解を決定したのだ。この時からフランス植民地の後ろ盾のアメリカが、
ここに出現した。1945年 7月26日のポツダム会議で、「インドシナは、北緯16度線を境
に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐し、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装
解除してフランス軍に引き継いで、インドシナの独立を認めない。」と決定されたのだ
。ここに今度は中華民国の国民軍の進駐を認めるという愚かな決定と共産党中国の卑劣
な行動作戦が一体化する元を作ったのである。9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言
を受けて、南部に進駐していた駐英領インド軍のダグラス・グレイシー将軍は、騒乱を
理由にベトナム民衆から武器の押収をはじめ、9月6日には駐英領インド軍の部隊がサイ
ゴンに入り、9月9日には盧漢将軍率いる中華民国軍がハノイに入った。連合国軍として
強圧的支配である。国民党軍は敵対する中国共産党と同志としたインドシナ共産党に対
して決して好感はもっていなかった。ホー・チ・ミンは中国国民党軍との対立を避ける
ためインドシナ共産党を偽装解散させて対応した。しかしインドシナ共産党は党員を「
民族の前衛戦士」と位置づけ、民族の利益は党の利益よりも優先させる特徴があった。
つまりホー・チ・ミンは内外共に高い地位を得ていて、民衆の信頼や信望があったのだ
1946年 2月28日、フランスは「中国・フランス協定」でハイフォン港自由化などを中国
軍の撤退を条件に受け入れ「ベトナム民主共和国」を「フランス連合」の一員としての
独立を認める。と通告した。しかし新聞記者で欧米政府の実態を知るホー・チ・ミンら
、ベトミンは完全独立を要求し、交渉が持続されていた。がフランス本国では新政権は
譲る事はなかった。「ドゴールの欲望」である。仕方なしに3月5日、連合軍東南アジア
軍司令部では、南部インドシナが連合軍統轄下よりフランス軍管理下に移行したことを
発表し、フランス軍は北緯16度線以南はフランス当局が接収すると声明を発表したのだ
。こうして自由フランス軍はフィリップ将軍指揮下の第2機甲師団がサイゴンに入り、
インドシナ南部のコーチシナを制圧、3月6日ハイフォン港に上陸しハノイに入城した。
進軍は続きフランス軍はラオスにも進駐し、インドシナ一帯を占領する。軍事行動に対
してホー・チ・ミンらは強く抗議、フランスは連邦制妥協案を提示するが植民地時代と
同じだ、許容出来ない。と1946年秋、ベトナム民主共和国側との交渉は決裂した。当然
でもあった。
[*]前 次[#]
▲[6]上に [8]最新レス [7]ピク一覧

名前:
Eメール:
コメント:

sage
IDを表示
画像を投稿(たぬピク)
現在地を晒す