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熱血高話
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189: 09/03 23:29
    歴史の群像     37

 ベトミンはソ連と中国共産党からの軍事支援を受けるまでは装備も乏しく、1946年4
月に、独自の軍士官学校を二校設立した。一校は日本軍に追われたベトコン将軍達で、
もう一校は、帰還しなかったその旧日本兵で構成されていた。日本敗戦後、ベトミンに
協力したインドシナ残留日本兵は 766人にのぼるとされる。また、武器は中国共産党か
ら提供されたがそれは後半で、多くは日本軍から鹵獲したもので、38式小銃などが多か
った。対する中国軍の武器は米国製自動小銃だった。1946年11月20日、ハイフォン港で
の銃撃事件を口実にフランスとベトミンとの間で全面交戦状態が始まって、インドシナ
戦争(第一次インドシナ戦争)が勃発した。こうしてフランス軍は12月19日に、ハノイの
ベトナム民主共和国政府へ武力攻撃を開始し、12月20日、ホーチミンは全国抗戦声明を
発表した。「われわれは平和を切望し妥協を重ねてきたが、妥協を重ねれば重ねるほど
フランスはわが国を征服しようとしている。われわれは犠牲を辞さない。われわれは決
して奴隷とはならない。すべての老若男女に訴える。主義主張、政治性向、民族を問わ
ず、立ち上がり、フランス植民地主義と戦い、国を救おう----。」と呼びかけた。これ
がホー・チミンの抗戦声明とされる。事実第二次世界大戦前のベトナム民は奴隷狩りの
流れの中にあった。フランス人には言葉はおろか顔さえも合わせてはならない程だった
。フランス人側も有色人種の彼らは重宝な家畜であり、白人同士のSEXにも糞尿する
場にも堂々とタオルや紙を持たせて立たせていたし、平気で鞭を入れ殺したりしていた
。之に日本軍は解放の手を入れていた。従って、敵で追われたゲリラ部隊が2校存立を
させて救ったのである。ベトコンゲリラ部隊が民衆の救世主だったように日本軍は国の
解放部隊だったのだ。こうして3年にも及んだ連合国フランスとの交渉はフランス進軍
として終わった。この第二次世界大戦後は、混乱した戦争の後処理で民族闘争時代だっ
た。アジア・アフリカの植民地で、支配国である連合国に対して独立運動が激化して、
白人達の頭越しの妄想国境が瓦解していく時代だった。1945年にはインドネシア、ベト
ナム、10月にラオスが、1946年にはフィリピン、1947年にはインドがパキスタンと分離
独立を叫んで果たしている。1948年には2月にセイロン(スリランカ)が、同年ビルマや
、また大韓民国が独立した。1949年には国共内戦で中華民国軍に勝利した中国共産党に
よって中華人民共和国が樹立した。フランスはこうした国際情勢に呼応し、国民の人気
が高かったバオ・ダイ帝を担ぎ出した。1948年6月サイゴンに「ベトナム臨時中央政府
」を発足させ混乱を打開しようとした。大統領はグエン・ヴァン・スアンをあて翌1949
年3月にはサイゴン市(ホーチミン市)を首都とするベトナム国を樹立する。こうして
、傀儡政権のバオ・ダイ政権を唯一の正当な政府と宣言し、ベトミンを徹底的に弾圧す
ると表明した。1953年当時の共産主義者主導の反仏活動が各所で起こり、この中心であ
るベトナムから、周辺国カンボジアとやラオスに波及していた。1954年にはフランスが
仏領インドシナを去り、ベトミンはジュネーヴ協定に従ってカンボジア国内から撤退し
、北緯17度線以北の北ベトナムへ集結した。このため、カンボジア国内のベトナム人の
左翼活動家の引き上げが始まったのである。カンボジア人左翼活動家の中で、フランス
で教育を受けた者の一部はヴェトナムの撤退に合わせてハノイへ逃れたが、ポル・ポト
は身分を偽って密かにプノンペンへ戻った

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