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熱血高話
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190: 09/03 23:30
    歴史の群像     38

 虐殺者で知られるポルポト将軍の幼少期に関しては、「彼は当時の慣例にしたがって
幼時に6年間プノンペンの寺院で暮らし、リセから中級専門学校の電気機械科に進んだ
のちパリへ留学した」と文献の中で書かれている。「私は、ある農民の一家の出だ。子
供の時分は、両親と一緒に住んで農作業の手伝いをしていた。だがその後、伝統に従っ
て、読み書きを習うため寺院で生活した。寺で6年間過ごし、2年間は僧侶になってい
た。」と語ったとされる。しかし、この本名サロット・サルは、一度も水田で農作業を
したことはなく、6歳の時にプノンペンへ送られ、タマヨット派の寺院で1年間見習い
をした後、8歳にカトリックの私立エリート校エコール・ミシェに入学している。6年
間過ごした。入学には、ポル・ポトのいとこで、モニボン王の側室の1人だったルク・
クン・メアクの助力があり王室の縁戚である。プノンペンでは、ロット・スオンの妻、
ルク・クン・メアクと一緒にトラサク・ペム通りの大きな家で、従者付きで生活してい
た。14歳の時にプノンペンの高校の入学試験に失敗、コンポンチャムのクメール人市場
の中にあったノロドム・シハヌーク高校にやっと入学。以後6年過ごす。1948年始めに
プノンペンへ戻り、郊外にあるルッセイ・ケオ技術学校で寮生活をしながら木工を学ん
だ。こうした少年期を過ごすと、奨学金を得て宗主国フランスの首都パリへ留学した。
、グランゼコールの一つであるフランス国立通信工学校(エコール・フランセーズ・ド
・ラディオエレクトリシテ、現フランス国立情報工学校)に入校して2年間の技術課程
を受けて、この留学中にポル・ポトは共産主義者になり、新生のクメール共産主義のグ
ループに参加したのである。このグループは、主としてパリに留学した学生が中心とな
って1950年にフランス共産党内に作られた「クメール語セクションクラス」に入った。
共産主義同盟では異色のクラスで、ポル・ポトには個性はなかった。ただ、この当時か
ら両者の主張には隔たりが大きく、共産主義グループではあったが、その主義・主張は
かなり幅広く、全体としては、共産主義というよりもむしろ反王政派、民族主義団体だ
ったらしい。また、母国の共産主義活動からは遊離し、観念的であった。当然ながら。
フランス人に対する民族観の違いであろう。このグループの中で民族主義とは一線を画
していたのが、ポル・ポトとイエン・サリで、内部機関紙でポル・ポトは「本来のクメ
ール人」というペンネームで、フランス、ロシアと1924年の中国革命に関する記事を書
いている。これを以ってもポル・ポトがこの当時から人種差別的な傾向を持っていたと
推測できる。カンボジアではベトナムに余剰米を売っていたが。国王シハヌークの外遊
中、ロン・ノル将軍により南ベトナム解放民族戦線への米の供給を止めるために、強制
、強制的な余剰米の安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる。暴動
鎮圧作戦は数ヶ月間続き、この後帰国したシハヌークもプノンペンの共産主義者達への
弾圧を一層強化する道を取った。同じ頃、辺境部のジャングルに点々と小さな左翼集団
があるだけだったが、ポル・ポトが中国に支援されてカンボジア政府に対する武装蜂起
旗揚げした。又、アメリカ合衆国は、シハヌークが南ベトナム解放民族戦線を支援して
いると勘違いしロン・ノル将軍を支援していて、ここでも米国の強硬策と勘違いが戦争
を拡大させていた。その結果、1970年にロン・ノルはクーデターを起こし、シハヌーク
を追放、ベトナムから中国への援蒋ルートは農民の逃げ場と共にゲリラの通り道として
尾根にづたいに火砲が飛び交った。

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