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熱血高話
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191: 09/03 23:30
    歴史の群像     39

 国名を「クメール共和国」としたカンボジアは、1970年 3月18日、ロン・ノル将軍と
先代のシソワット王の子のエッサラヴォン親王の孫であるシソワット・シリク・マタク
らが、クーデターを起こし、病気の治療のため北京を訪れていたシハヌークを国家元首
を解任して王制を廃止して出来た国家だった。ノロドム・シハヌークの従兄弟であり、
北京に亡命したシハヌークは悩む事になった。シハヌークはロン・ノルを信じていたし
ロン・ノルもシハヌークへの忠誠心から決行を渋っていた。しかしシソワット・シリク
・マタクは人気や信望がないシハヌークの重臣で、シハヌークが敬遠したために政権か
ら遠ざけられ、駐日大使(1966年)などをしている。この男が帰国し強硬に決断を迫っ
た。とされて渋々従ったとされる。70年政権につき71年に病気で倒れたロン・ノル
に代わり首相職を代行した。しかしロン・ノル辞任後、シリク・マタクの首相昇格には
反対が多く、病身のロン・ノルが再び首相に就任して集団指導体制をとることとした。
また72年に大統領となったロン・ノルにより首相に任命されたが、彼と対立し1週間
で罷免された。逃げていた彼に武器を差し出したのは中国だった。ベトナムを超えて、
紛争がカンボジア内戦に及ぶと、共産勢力であるクメール・ルージュの勢力が伸長する
。、クメール・ルージュによると、ロン・ノル大統領、ロン・ボレト首相、ソン・ゴク
・タン元首相、ソステン・フェルナンデス参謀総長らは、「七人の売国奴」と称され、
死刑判決を受けた。シハヌークは挽回を図りポル・ポトと接触する事を決めた。元々は
クメール・ルージュとシハヌークは不倶戴天の敵であったが、ここに共闘関係が生まれ
た。ポル・ポトは元国王の支持を取り付けることで、自らの正当性を主張できると考え
たし、シハヌークは王位よりは王家の家系の断絶を悔やんでいたのだ。1975年 4月17日
、クメール・ルージュはプノンペンを陥落させた。シリク・マタクは数日前に米国への
亡命を勧められていた。しかし彼もまた共産党員であった為同行を拒否した。その後、
プノンペンのフランス大使館に避難していたが、クメール・ルージュ軍が迫りと投降し
た。フランスにも見限られてしまったのだ。こうして直後に殺害された。フランス革命
のレジスタンス教室の共産党達の運命は、フランスの内戦攪乱で領地を再び植民地にし
ようと言う意図や、中国の領地拡大権益南下政策の中で、揺れ動き双方に攻められた結
果だった。ロン・ノルは、イギリス軍がインドに到達した頃からの山岳民族の家系だっ
た。宗教に関わらない傭兵としてこの地に降り立ったクルドのグルカ兵とされる。なぜ
クルドのグルカといわれるか中世以前の十字軍遠征初期まで遡るとされる。ともあれ、
こうしてカンボジアの仏教宗教に帰依したグルカの子孫はシアヌーク殿下などの護衛を
し、ロン・ノルは単なる親衛隊長だった、しかしシアヌークの見込みで抜擢されていた
。日本軍がカンボジア軍のチャム人兵士を養成したが、その一人の将校レ・コセムのよ
き理解者であった。かつて幾つもの内乱となっていた民族や部族の紛争にシハヌーク国
王を説得し、被抑圧民族闘争統一戦線(FURO)の創設に排除でなく支援の方針を取
らせたのも彼だった。南ベトナムのメコンデルタクメールや中部沿海のチャム族、中部
高原山岳民、山岳エデ族、等々の自治・独立闘争において、シハヌークとロン・ノルは
彼らの希望の星であったと言える。ニクソンが対中政策の見直しを決定した1969年に、
ニクソンの内政干渉はこのFUROのの投降・解散であった。1969年のロン・ノルのク
ーデターは、これまでの中米仏の連合軍の協定破綻から来ている。アメリカのアジア圏
再分割案は、インドシナ半島の中国への譲渡のプロセスの中で行われた。これを後押し
する形でシソワット・シリク・マタクが旗揚げしたのは間違いなく、戦時中の中国支援
から移った対共産党アジア支援に約束されたものが実行される。と思っていたのである
。こうして中国周辺国は、日本が引き揚げても尚中国の共産軍国民軍と戦勝国に揺れて
歴史を刻んでいた。
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sage
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