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熱血高話
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192: 09/03 23:31
    歴史の群像     40

 ところがしかし、軍事支援はニクソン大統領の中国訪問後ただちに中止され、ロン・
ノル及びカンボジアの反共主義者たちは見捨てられた。亡命していたロン・ノルらを除
いて親中派のクメール・ルージュによって、ことごとく彼らは徹底的に虐殺されたのだ
。これは毛沢東方針と呼ばれる。ロン・ノルに任命されたシリク・マタク元首相や弟の
ロン・ボレト首相も1975年 4月17日のプノンペン陥落直後に殺害された。ニクソン大統
領は国内の人気取りに共産党排除をやめたのだった。1970年11月18日にニクソン大統領
は、カンボジア政府への援助金1億5,500万ドル(8,500万ドルは軍事援助)を連邦議会
に求めた。ロン・ノル政権は、シハヌークの中立政策で展開していた。北ベトナム軍と
ベトコン追放の名目でのニクソン政権を頼り、資金援助とCIA技術支援を受け取った
のだが、それでも中国支援のクメール・ルージュの攻勢を止めることはできなかった。
1971年4月20日、国会により元帥に指名されて、1972年3月10日に国家元首に就任したが
彼の心は憂鬱そのものだった。同年 3月13日に大統領に就任した。ロン・ノル政権にな
って以降、北ベトナム・クメールルージュとアメリカ・南ベトナムに支援された政府軍
の内戦は本格化し、人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、数十万人の農民が
犠牲となり、さらに難民が 100万人以上都市へ流入し、食糧輸出国であったカンボジア
は食糧輸入国に転落した。共産勢力が迫る1975年4月1日に、ロン・ノルはカンボジアを
出国し、インドネシア経由でハワイへ逃れた。その後1979年にカリフォルニア州フラー
トンに移り住み、1985年に死去した。カンボジアの毛沢東方針は、原始共産主義の生活
が一番だとポルポトが示す事と主張している。原始共産主義------つまり宗教や学問、
経済や芸術等の西側諸国のあらゆる習慣に一切妥協しないカンボジア共産主義国の建設
である。つまりは人間が築いてきた学問・技術・宗教といったものを否定したのだった
。なぜこうまで中国は共産主義の賛同を求めたか。実は1953年にスターリンが死んで、
ソ連国内も東欧もスターリンの路線の否定(1956年〜)に路線変更して政治を行おうと
していた。しかし毛沢東は、こうした改革路線は共産党の危機であり、それ以上自分の
地位の危機だった。市場仕組み導入を求めて、周恩来やケ小平の活躍でせっかくの経済
浮揚が文化大革命で沈み、徹底して中国国内の知識人を叩いていて、その一部が大陸の
援蒋ルートで脱出していたからだ。こうしてソ連のスターリン批判に同意せず1960年頃
から中ソの対立は鮮明になって行った。東側陣営(共産主義圏)もソ連陣営と中国陣営
に分かれて対立していたのである。その後も中ソは国境紛争もあって戦争一歩手前どこ
ろか、小競り合いの紛争を繰り返すようになった。つまり中国の国境なき共同生産革命
と国の威信と境界を規定したソ連の戦いだったのだ。カンボジアに国境を引かない。と
これが中国の狙いだったのである。そのためにカンボジアの知識人が殺害されたのだ。
いまでも中国人の国境意識は薄く、一帯一路政策はその中国人の意識に沿った形であり
、西洋の権利や人権あるいは境界や規則と言う歴史から学んで作られた洗練された意識
は全くない。歴史はこれから作っていくもの、中国はこれまで通り天子様以下平等にあ
った社会で境界も権利も自分達の決めるもの。今は中国共産党の下で自由に何でもでき
る。出来なければ戦争するまでだ。と勘違いしているのである。そしてそれに朝鮮人も
なびいていて韓国などは民主主義を民衆主義と認識しているのである。

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