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熱血高話
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193: 09/04 12:51
    歴史の群像     41

 ポルポトの運命や性格は、ベトナム戦争で数度にわたり組織の名称を変えて戦った時
に遡るのであろう。日本が敗戦まぎわに援蒋ルートを叩いて日本軍はビルマを抑えよう
とインパール作戦に向かったのだが、このインパール作戦も援蒋ルート叩きの一環だっ
た。1942年(昭和17年)10月に入ると日本海軍の敗戦結果として海の防波堤は消えて、
物資の補給すらままならない状況だった。イギリス陸軍は日本軍への反撃が開始し、イ
ンド洋と太平洋での英軍と米軍の協調で戦闘が激しくなった。そこで、日本陸軍は防衛
体制の刷新に迫られ中国のモノンハン事件に集合した部隊を南下させ、当時の失敗した
幹部連中を最前線に置いた。1943年に河辺正三(かわべまさかず)中将を方面司令官に
したビルマ方面軍が創設され、所属部隊の第15軍司令官に牟田口中将が就任させたのだ
。こうして南方がビルマに集中される頃カンボジヤやタイや中国国境沿いの峠道が新た
なルートとして開拓されていった。この頃から中国国民党軍と、越境した兵士を迎え討
つ日本軍と対峙していた英軍グルカ兵との交流があった。知っての通り日本は中国を単
に石油などの南方資源輸送の通り道であり、占領や支配する意図がなく、基本的には、
国民党軍はそのアジア共栄圏の仲間として中国大陸進出を果たしていた。しかし残念な
がら中国側は北伐作戦で既に毛沢東の国共合作に取り込まれ日本こそ悪玉と盧溝橋事件
や南京事件堤防爆破など数限り起こっていたのである。こうして敗戦後連合国の一員と
してベトナムに進駐するが、中国共産党にはその力がなく進軍支援をこの山岳民に頼り
共産党軍が侵攻した。こうしてカンプチア救国民族統一戦線( FUNSK ) は、政治的に
はマルクス主義政党カンプチア人民革命党(KPRP)の包括的組織の中にあり、基本では
民族主義独立闘争であった、1977年、こうして共産党下部にクメール・ルージュを組織
しポルポト派はカンボジア東部で血の粛清を行った。しかしこの中身の幹部は暴力共産
党であり中国人であった、仏教徒ではなかったのだ。いまやビルマいやミャンマー政権
で中国との国境沿いが一帯一路で開かれようとして、そこにいたイスラム教やヒンズー
を追い払う作戦に出た。そうしてロヒンギャ難民が出て国際問題化している。しかし、
彼らはロマの民族同様に海洋の流浪者の末裔で、実質上はミャンマー民は山岳の民とし
てグルカ兵の子孫と合流してるが、それより古くから海辺の墓守りあるいは水守りとし
てこの地に暮らしていた民である。貝や魚で筏によって暮らし、年老いては陸に上がる
。そうした部族で財産を持たない民だった。宗教が今やイスラムだが、彼らは仏教にあ
る帰依や奉仕あるいは報公や布施ができるほどの豊かさは持ち合わせていなかったのだ
。それは海と天候にある。つまりどんなに栽培しようが長雨や台風の影響が大きくて、
細々としか暮らせなかったのだ。また海岸も常に浸食と土砂崩れの間にあって引っ越し
も多く村も大きくはなれなかったのである。こうした民を、中国流の清野作戦で一部の
中国系帰化民の政府軍兵が焼き払いと捕縛・強奪に及んで人々を追い払ったのである。
これは単純明快に中国のガスパイプラインと石油供給ルートの策定から邪魔だったから
である。マラッカ半島を渡って供給するより遥かに近く、又米国の監視を割いて安全に
供給出来るからである。しかし、そうした国策で難民となった人たちはウイグルやチベ
ット同様に何も悪いことをしていない無辜の民たちで、国民を保護する事に向かわず、
異国の悪行と共に共謀し排除に向かうとは、既に国の体制を持っていない。

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