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どうした日本
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1004: 02/01 16:17 ID:b2
 [憂鬱人敵 1060]

 又朝鮮工作隊 第五烈は何を指令したのだか。小沢が動き、山崎が吠え、細野が跳ぶ
自民党の二階派(44人)が無所属議員を引き入れる手法で勢力を伸ばしている。今月
末には民進党出身の細野豪志・元環境相(当選7回)が「特別会員」として入会する見
通しとなった。スパイのやるこたぁわかんない。かつて、1949年11月、中国の劉少奇は
中国流の武装闘争方式を日本を含むアジアに広げる見解を打ち出した。これはソ連のス
ターリンとの相談に基づくものだった。1950年6月4日、第2回参議院議員通常選挙では
始めて、日本共産党から3人が当選すると、6月6日、マッカーサーは彼らに繋がる中央
委員24人の公職追放を指令し、その政治活動をただちに禁止させた。日本共産党書記
長徳田球一らは、この弾圧を自らの党支配を実現する絶好の機会とし、政治局会議や中
央委員会を開催せず、党規約を取らない手続きで「臨時中央指導部」を指名し活動を始
めた。徳田らは、意見の異なる宮本顕治ら7人の中央委員を排除して、非公然の体制に
入る。こうして日本共産党と嫌われる裏工作共産党が出来た。GHQのレッドパージ(
共産党員狩り)の後、中国に亡命した徳田球一らは北京機関を設置し、1951年2月の第4
回全国協議会(四全協)において反米武装闘争の方針を決定し、中国共産党の抗日戦術
を模倣して、山村地区の農民を中心として、全国の農村地帯に「解放区」を組織するこ
とを指示した。 同年10月16日の第5回全国協議会(五全協)では「日本の解放と民主的
変革を、平和な手段によって達成しうると考えるのは間違いである。」として「農村部
でのゲリラ戦」を規定した『日本共産党の当面の要求――新しい綱領』(51年綱領)が
採択され、「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない。」と軍事方針
が打ち出された。この運動方針は、当然敗戦後のやっと来た平和世論からは批判を浴び
、1952年10月の総選挙では共産党候補者の全員が落選した。共産党は1955年1月1日に、
武装闘争が「極左冒険主義」だったとして自己批判を行い、同年7月29日の第6回全国の
協議会(六全協)で武装闘争路線は完全否定された。現在、日本共産党は「五全協の方
針は、分派(所感派)による党の分裂と党機関の乗っ取り、ソ連・中国による武装路線
の押しつけによって生まれた。もので、党として正式に採択した方針ではない。所感派
による党の分裂と極左冒険主義は深刻な誤りであった。」としている。六全協の後、共
産党は、誤りをおかした党員であっても、分裂と武装闘争路線の誤りを認め、新方針を
支持してまじめに努力する意思のある人は排除しない方針をとり平和革命路線への転換
を受け入れなかった人々が「日本の新左翼の起源」となったようだ。これはソ連・毛沢
東路線と言われて、世界の共産党の標準声明だったが、日本人は受け入れなかったのだ
。ではここからが問題だ。ここで地下に潜った日本の毛親共産党は何処に行ったのか。

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sage
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