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どうした日本
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5: 01/09 07:00
おやおや 05

 なかでも 子供が 人の言うことを聞かない 或いはイエスマンで言われるがまま
で と言う二つの選択肢に迫られた場合一体どうした基準で自分が進むべきかが不明
のまま戸惑う事は 大人である私たちでさえ数多くあることだ。少年はこの中でどの
選択をとったのかは解らないが 今の教育で多くの子供がそのどちらをとっても不幸
な選択を迫られ ゆとり教育の名でさらに過酷な運命にさらされているのは明らかで
あるだろう。つまり計算の練習を積んでいない人に三桁掛け算をさせるようなもの 
と例えるならいえるだろう。これは世代教育の破綻であり責任放棄であったのである
 ある文部省大臣が 「孫のような子供達がね。かばんにいっぱい もう抱えきれな
いように分厚い本を背にしょっているのよ。少しぐらい簡単に教えていいと思うよ
僕は。円周率だって3.14だなんていっても 大人になれば電卓でしょ 貴方一般
の人がわざわざ3.14を掛け算しないでしょ。3でも充分でしょ。」と言ったので子供
たちは 今では悲惨にも諸外国人の安い労働者よりも知恵遅れとして企業は採用しな
い。此の現象を政治家は 特に自民党や公明党は責任をとらなければならないだろう
 子供を産む愛情と育てる愛情と二つに分けて考えるならば 産むという行為に子供
への愛情というのは存在はしない。其処にあるのは対男性への愛情か将来への慕情の
どれかである。対して育てる為の愛情というのは 多肢に及ぶ 食べる事はもちろん
そうした世話や家庭の習慣からしかってまで覚えさせる事や 自ら我慢して見守る事
まで愛情がなければ続かない事は結構多い。中でも言葉のわからない赤ちゃんに 只
々産んだという感性のみで 夜泣きする子供を育てる事は出来ない。本や友人・先人
や家族といったものからの知識や知恵の授かりで 育てるという行為は進んでいく。
此のことは大きな試練であるし 死ぬまでの人の試練でもある。つまりは産む行為に
関わらず 人は人を愛情を注ぐ事を強いられるのである。で近年のDVや代理出産や
子供達の殺人事件は この親たちの個人でなく公としての親の資格が無くなった事を
意味しているのではないだろうか。
 
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sage
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