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私の番組評
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1005: 02/09 08:50 ID:Ms
 柳川 銭紋  18

 海外視察に行った大久保利通や岩倉具視などの使節団は、ある意味調子者であった。
今だ表だっての異変の姿はなかったが、多くの藩は言わば徳川幕府の残党であり、藩主
は自藩の行政に汲々ではあるにせよ明治新政府の賛同者では無かった事は確かだった。
参勤交代が無くなって、少しは出資金が無くなってはいたものの以前から慢性的不満は
あったはずだ。こうして押しつけられた西郷隆盛や三条実美などの留守組だったが、こ
の時既に西郷は腹をくくっていたのだろう。次々に藩主の要望や新しい制度改革に成功
していた。留守政府がおこなった主な改革は・江戸時代以来の封身的身分制度を撤廃し
。旧四民平等を原則(一部は残る)にして人権問題の改革に着手していた。更に・士族と
言う武士の各種特権を解消させる令を発布した。又・農民の耕地権と土地の私有権を認
めて、封建時代の経済社会の改革も断行し、その為の・裁判所の設置も各所につくり人
を送っている。学校教育にも言及し・学制を引き公共教育制度の創設した。・太陰暦を
廃して、太陽暦の採用を呼び掛け、鉄道・電信・郵便などの制度や技術導入し、決済し
た。又・憲法制定と国会開設の準備に着手し。・日清修好条約の批准を行っている。こ
の矢継ぎ早の改革は実は出航前からの懸案であり、本来早々に解決すべき事だった。し
かし反発を恐れた大久保などは、無理な意見を時期早々と先送りにしていたのである。
しかし西郷と三条は結構上手く処理し、逐一天皇に決済を求めて先に進んでいたのであ
り、このまま海外視察に行った大久保利通や岩倉具視などは不要な程の鮮やかさだった
。こうして使節団と西郷や三条実美などの留守組(政府)との間で少し嫉妬の様な空気が
流れる中降ってわいた様な事件が起こった。日清修好条約の批准をするに及んで、朝鮮
からの清王朝の嫌がらせである。清と同じ様に新政府としての政府発祥通知に対して、
朝鮮王朝は対日意識が強く、日本政府を無視するような〈屈辱的な態度〉に終始した。
李王朝にとっては隣国が民主主義になった事は、平民の政府が出来た事は危険で許せな
かったのだ。更に中国の属国としての意識の為、当時の日本の領事館の役目をしていた
日本領土の龍頭山公園は、日本人居留区であり、10万坪もの面積があった新倭館があっ
た。同時代の長崎の出島は約4000坪であった事からも、その25倍に相当する。この釜山
の新倭館の草梁倭館は、竜頭山を取り込んだ広大な敷地には館主屋、開市大庁(交易場
)、裁判庁、浜番所、弁天神社のような神社や東向寺、日本人(対馬人)の住居があっ
た。とされる。しかしこの入り国に日本を罵倒した張り紙が返ってきたのである。それ
は李氏朝鮮の両班の嫌がらせであり、自分達の身分が高いまま存続する意思でもあった
。つまり幕府が潰れたとわざわざ知らせて、国民動乱を焚きつけるな。と言う意思だっ
た。ここで対朝鮮問題が起きてしまう。新政府役人が一斉李朝政府に対して、「断じて
許しまじ」という空気が支配していたとき、使節団はまだ帰国していませんでした。
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